
おわりに
この報告はあくまで私の個人的な視点から見たアメリカの一大学で行われている吃音セラピーの実態だが、このセラピーの特色はアメリカの主流ではないかと思われる。吃音は非常に微妙で感覚的な問題で、人それぞれに考え方も信念も違い、互いの批判が絶えないのも事実だ。
ここでは私の個人的経験と自分なりに感じたことを素直に書いた。もちろん、時が流れれば人は変わり得るもので、この先私の考え方もいろいろな経験によって変わっていくものと思う。
現に、このセラピーから2ヶ月たった今、随意吃、擬似連発は全くしていない。できない。吃音は前のように戻り、むしろ、以前の、もしくは以前より一層随伴運動が目立つように自分で感じる。これは、「吃りたくない。吃る自分を見せたくない」という衝動からなるものだろう。でも結果的には随伴運動によって一層“異様”な話し方になっているのかもしれない。ディレクターのガーベル教授とはその後頻繁に連絡を取っており、その都度アドバイスをくれ、励ましてくれる。セラピーも期間が終わって日常に戻ればクリニックで教わったことを実践するのは難しいとはこのことなのだと実感した。でも、「日が経てば忘れてしまう」と終わりにしたくはない。あれほど頑張って、たくさん学んだ2週間半を幻にはしたくない。
はじめの一歩として、古くからの数人のアメリカ人の友人に涙ながらに吃音のことを打ち明けた。少なくとも彼女らの前では吃ることを気にしないようにしている。私が格闘している困難がどれだけ伝わったのかは分からない。でも問題はそれではなく、自分に偽りなく誠実に人と接し、より強い信頼関係を作るため、そして日々を楽しく充実させるために必要なことなのだと思っている。
他に呼吸を整えることも私にとっては大切な練習だと思うが、まだそこまで頭がまわらないのが正直な現状だ。
今後の目標としては、呼吸を意識することと随意吃、擬似連発をすること。これは吃音をもつ友人とやっていこうと計画している。ゆっくりだが前進していると思う。
私の通うニューヨークの大学院では、先日、秋学期が始まった。学期初めのクラスでの自己紹介では、新入生50数人の前で私が吃音であることを話した。相手に理解してもらうためではなく、自分が楽に、気負わずに気取らずにありのままで接するためにだ。
ここに至るにあたっては、日本の教育財団からの奨学金をいただいている。今年の採用試験には180人が応募した。結果は7人が採用されたにすぎない。年齢がオーバーしているにもかかわらず、この貴重な援助が頂けたことは吃音のおかげだととしか言いようがない。
私は、20代の頃は、吃音から逃避することに終始していた。30歳で単身アメリカに渡り、短大で英語の学習から始め、4年制大学へ編入した。そこで初めてずっと隠してきた吃音と向き合い、本当の私の人生が始まったように感じた。その発見とこれからの自己改革、吃音の研究、活動への野心を素直に作文にし、面接でも話した。
採用の結果を聞いたときは「本当ですか?」と涙し(すぐ泣くんです!)、「私が?」と茫然とした。まさか、これほど大勢の応募者の中から、私が採用されるとは思わなかったからだ。
そんな感動も、オハイオ州での素晴らしいセラピー体験も終わり、現実はアメリカ人の中でどう学業を成就し、セラピストとしての知識、スキルを身につけていくかにとても不安を感じている。が、不安を感じたときはとにかく話すことにしている。ここアメリカでは助けを求めることは決して恥ずかしいことではない。つらいときにはつらいと言い、助けを求める。助けを求めれば必ず助けがあるのだ。ただ、それは自分で探し、足を運ばないと得られない。異文化の中での価値観の違いや劣等感など、いろいろ困難はあるが、ここまで来た以上頑張らないといけない。