なぜ症状の改善ではいけないのか、よく判った第1章
『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』感想文

赤松 祐吉(50代 自営業)

 
『治すことにこだわらない、吃音とのつき合い方』
 
 第1章では、吃音は、症状のみの改善をすることと捉えていた、編著者のお一人の水町俊郎さんが、それだけではだめだと気づかれていく研究過程が書かれていた。
 吃音者ではない水町さんが、なぜ吃音を研究されたのか? また症状の改善のみではいけないと変られていかれたことに、興味をもって読ませていただいた。
 
 私も18年位前、どもりを治そうと金曜例会(吃音教室)に来た。毎回の例会ごとに「なぜ、治す方法を早く教えないのか」と疑問に思っていた。思いとは別に「40歳まで吃っている。治るものなら治っているだろう。これは治らないかも知れない」との思いもあった。
 水町さんとは違うが、私も、〈治す〉から、〈何か別の道がある〉と考え方が変っていった。例会も面白くなり、まじめに参加し、今まで全く別世界のことと思っていた心理療法の本も読むようになり、全く知らなかった吃音の知識も学べた。自分が変っていくのがよくわかった。
 
 へぇ〜小学校も、女子短大の先生もされていたんだ。大学の恩師の勧めで障害児の言語に漠然と進まれた。水町さんは、吃音症状の改善のため〈行動療法〉の研究をされたが、流暢に話すために指導しても、
(1) 限られた場面でしか効果がなく、日常の場面では容易でない
(2) ぶり返しがある
(3) 治すことに必死になり、趣味や人間関係を広げ、自分を成長させるための努力をしない
等の問題に気づかれた。(第1章 P.3〜)
 吃音の氷山で、水面の上より、水面下の隠れている部分に研究の軸足を移された。研究の視点は、「吃音(非流暢な話し方)」から「吃音を持った人間」へ転換された。私たちとは、吃音者に対する聞き手の研究等を通して、つながりを持たれたのがわかった。
 
 水町さんの講演を何度かお聞きしたことがある。よく「私は『スタタリングナウ』や『新生』の単なる読者ではない。熟読者です」と言われていた。講演の内容にも、『スタナウ』や『新生』の記事がどんどん出てくる。聞いていて知っていることが、出てくると楽しいものである。私たちの良き協力者であり、理解者でもあった。
 講演の後、みんなとの雑談で、桂米朝さんの落語が好きでよく聞いている話や、お酒が好きな話などいろいろ楽しい話をされていた。「もうすぐ定年、そしたらゆっくり飲みましょう」と話されていた。
 昨年の秋、亡くなられたと聞き、残念でならない。
 
OSP機関紙『新生』2005年06月号掲載