『どもる子どもとの対話 〜ナラティヴ・アプローチがひきだす物語る力〜』読後感想
さあ、対話を続けよう
坂本 英樹(大阪スタタリングプロジェクト、どもる子どもの親・高校教員)
 
『どもる子どもとの対話』表紙
 
 私は週に一回の大阪吃音教室や夏の吃音講習会等でこれまで幾度となく、伊藤伸二さんの自己語り、吃音物語を聞いてきた。しかし、この本の1章「ナラティヴから読み解く、吃音の特徴と吃音問題の本質」での伊藤さんの語りは、エポックとなる出来事はこれまでと同じでありながらも、そこから汲み取られる意味世界は初めて聞くかのように新鮮でわくわくした。民間吃音矯正所である東京正生学院での日々の意味が「治療の失敗体験」から「仲間との出会いの場」へ、そして「どもれない体から、どもれる体になった」(p.21)経験へと生成、ターンしている。
 
 この意味変容はナラティヴ・アプローチとの出会いが伊藤さんの探求の物語を進化、深化させたものである。と同時に、人との出会い、対話によって思考がシンクロし、引き出されていく伊藤さんの強みも明らかになっているという点において、「当事者研究」でもあるだろう。
 ナラティヴ・アプローチが吃音から受けるマイナスの影響を考察、読み替えていくのに有効であることは、自分の経験に即して話す、言語化することを通して参加者同士の対話を重ね、そこに新たな意味と自他のユニークなありようを発見する大阪吃音教室の構造に由来する。吃音ショートコースの講師として吃音と出会い、そのことを直観したニュージーランド在住の国重浩一さんによる、吃音に焦点化したナラティヴ・アプローチの解説が、大阪吃音教室に通うものにとって、初めて聞くような言葉、概念装置でありながらも例会でのやり取りを思い出させるのはそれゆえである。
 
 ことばの教室の教員にとってもそれは同様だろう。紹介されている4人のことばの教室での吃音チェックリストや吃音キャラクター、どもりカルタ等の実践はナラティヴ・アプローチの基本認識である「人が問題なのではなく、問題が問題なのである」(p.12)という「外在化」の実践そのものであるし、子どもが吃音を通して経験することを担当教員が自分自身をも開示して聞く姿は「無知の姿勢」のスタンスに他ならない。吃音という手ごわい相手にともに向き合おうという教員の存在様式がそこにある。
 
 医師や○○士、教員といった何らかの専門性をもった職種の人たちにありがちな態度に相手より一段高い位置から接するというものがある。相手より専門教育を受け、知識があるからというわけだ。しかし、人はセオリーや○○一般を生きているのではない。一人ひとりの個別性を生きているのである。
 ましてや吃音はこの本でも述べられているように変動性と多様性にみちた課題である。その当事者以上の専門家がいるはずはない。誠実に謙虚に他者としての子どもと向き合うという「対等性」が無知の姿勢を支えているのである。
 紹介されているやりとり、対話の実例は「これから吃音について子どもとどう話していこうか?」と思案することばの教室の教員や言語聴覚士、親にとって参考になるのはもちろんのことだが、対等性というメッセージこそ受け取りたいこの本からの贈り物であり、子どもと向き合うものが学ぶべきモラルであろう。
 
 私もこの実践を提示していることばの教室の教員の4人とは、校種は異なるものの同じ職種である。教員のドミナント・ストーリーの一つに「最近の子どもはよくわからない、話が通じない」というものがある。この言葉をつぶやく教員の表情は少しニヒルで、それを聞く周りの同僚も異を唱えることなく同意を示す、というような疲労感を漂わせた光景は学校という場の日常にあふれている。
 しかし、この本にも登場する「吃音を生きる子どもに同行する教師・言語聴覚士の会」のメンバーから、そんな発言が出ることはない。むしろ、その子どもが吃音を通してどんな課題や困難と向き合い、サバイバルしているのかがわからないからこそ、聞きたい。その対処を一緒に研究したいという言葉である。このメンバーから語られるのはこの本にあるような担当する子どもからこんな話を聞いたという個別のユニークな体験、オルタナティヴ・ストーリーである。教員として枯れることなく活き活きと実践を重ねている姿は私だけでなく、同業にあるものを鼓舞してくれるのではないだろうか。
 
 さて、幼い頃に読んだ物語の多くはその最初に起きた破綻なり、事件が収束して「・・・で幸せに暮らしましたとさ。おしまい」という大過去から比較的近い過去にいたって終わるという形式のものと、主人公たちが新たに次の冒険に向かう「続く」という現在から未来を示唆する形式とに大別される。
 ナラティヴ・アプローチをベースとした『どもる子どもとの対話』の読後感は、明らかに「続く」である。「言葉は世界をつくる」というナラティヴ・アプローチの理論的背景である社会構成主義の哲学に立つならば、これから伊藤伸二さんたちがどんな人や子どもと出会い、どんな場を共有しながら対話を実践していくかによって、紡がれていくナラティヴはさらに生成とターンを繰り返していくに違いない。
 つまり、この本は伊藤伸二さんの吃音哲学の集大成にして、新たな旅立ちの書でもあるのだ。
 
 新たな旅立ちであることは対話がオープンエンドな構造をもつことにも由来する。対話の過程で話者たちに一定の了解や認識が生まれることもあるだろうが、十分に言語化できなかった思いや、腑に落ちない思いも残ることもある。一定の了解さえ、新たな疑問に変わっていくだろう。クローズドエンドのディベートと異なり、オープンエンドの対話は「続く」性格をもつものなのだ。
 「続く」対話を通して、ことばの教室に通う子どもたちは自己内対話をするための「自己」というものを自身の中に育てていくことになるだろう。これが思春期以降の吃音の課題に向き合う資源となる。伊藤さんのいう吃音の予防教育である。
 
 対話は続いていく。ナラティヴ・アプローチの提唱者であるマイケル・ホワイトの遺稿集である『ナラティヴ・プラクティス』(小森康永訳、金剛出版、2012年)の副題には「会話を続けよう」とある。『どもる子どもとの対話』を一読して最初に浮かんだのは、マイケル・ホワイトに習ったわけではないが、「さあ、対話を続けよう」というフレーズだった。
 
日本吃音臨床研究会機関紙『スタタリング・ナウ』2019年1月号掲載
 

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