真面目に仕事をする、勉強をするということは、大事なことであるが、これだけが強調されると、ユーモアを欠いてしまう。一方では、自らの真面目さを笑うゆとりも必要なのである。
教育や医療や介護、ビジネスの現場で、笑いとユーモアが取り入れられていくと、教室も病院も職場も、もっと明るく楽しいものに変えていけるはずだ。
私の受けてきた教育は、「笑われる人間になるな」というかけ声で急き立てられるものであった。「笑われたら恥」という教育があり、そこではいつも笑いは遠ざけられた。今でも「笑われる」ことへの警戒心は強い。ちょっと笑われただけで、立ち上がれないほどのショックを受ける人がいる。
笑いを恥の概念から解き放ってやらなければならない。笑いとユーモアは、個人を解き放ち、仲間とのコミュニケーションに心地よさを残す。
昨今の世相は、何か気に入らないことがあると、すぐに暴力と短絡する。「カッとする」「むかつく」とゆとりをなくしてすぐに喧嘩となる。暴力沙汰になって果ては殺し合いになる。
笑いとユーモアは、暴力と対極にあるものだ。意見が対立していても両者が笑ってしまうと、喧嘩には発展しないものである。笑ったからといって何もかもがうまくいくわけではないのはもちろんだ。でも、笑いがなければ、緊張はとけず息がつまるし、心にゆとりは生まれない。自覚と反省の芽も生まれない。
人間は、「笑う存在」なのだが、私たちはまだその「笑い」が秘める可能性に目覚めていない。眠らされてきたというべきか。「笑い学」が私たちを縛っている鎖を解き放ち、自信と誇りをもって、おおらかに明るく生きていく糧となればと願うところである。
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