「山のアナアナアナ…アナタの空遠く…」
自らの吃音体験をもとにした三遊亭歌奴、現在の円歌師匠の創作落語が、連日テレピ、ラジオで流れた時期があった。
この落語を聞き、吃音を笑いの対象としていると感じた当時の私たちは不快の念を持った。直接、歌奴さんに抗議し、ある週刊誌の仲立ちで、歌奴さんと私たちで話し合う機会も持たれた。
吃っている声や姿だけでなく、「どもり」ということばにさえ嫌悪する吃音に悩む人にとっては、「山のアナアナアナ…」は笑って済まされないものであった。
吃音は本人にとって人生を狂わすほどに大きな問題となる場合がある一方で、このように一般の人々にとっては笑いの対象でもあり得た。悪意のからかいは論外として、他の障害や病気を笑いの材料とすることは、その障害や病気の当事者だけでなく、広く一般の人々にも受け入れられることではないだろう。
しかし、吃音は一般の人々が、笑いの対象としてもあまり罪悪感を持たない唯一のものではないだろうか。
私たちのセルフヘルプ・グループの例会に初めて参加した人が驚くことのひとつに、吃る人同士が、人の吃っている姿を見て笑うことがある。誰に対してでもという訳ではないが、吃って立往生している人にヤジがとび、笑いさえ生まれることがある。
「吃る人が吃っている人を笑うなんてひどいじゃないですか」と本気で怒る人がいる。しかし、怒った人も半年後には他の人の吃っている姿を笑顔で見ることができるようになっていく。
私たちの笑いは、さげすみでもからかいの笑いでもなく、ふともれる自然な笑いである。また楽しそうに吃る人にはつい笑ってしまう雰囲気がある。同じ吃るにしても、ふと人の笑いを誘う明るい吃り方に変えることができれば、その人にとっては大きな前進なのだ。
私たちは吃る。吃りたくないと思いながらも吃る。どっちみち吃ってしまうものなら、暗く吃らないで、明るく吃ろうよと言い合ってきた。
私たちが吃音問題を考える大会を開いたとき、司会をした人は、挨拶の「本日は…」で吃ってなかなかことばが出てこなかった。そこで、「ハーヒーフーへ一ホンジツは…」と切り抜けた。大爆笑が起こり、それまで会場に張りつめていた緊張が一気にほぐれた。
生きがい療法実践会の伊丹仁朗さんを招いての吃音ワークショップの時、ユーモアスピーチに取り組んだ。どもりを笑いとばす楽しい話がたくさん聞けた。
また、ユーモアスピーチの例として話して下さった癌患者の藤原さんの話はおもしろかった。死と直面しながら、自らの闘病生活をおもしろおかしく、笑顔をたたえて話す姿に人間の素晴らしさと凄さを思った。
自分の苛酷な姿を客観的に第三者の目で見、笑いの対象とする。物は一面的な見方でなく、いくつも見方があることを、笑いと共にさりげなく示して下さった。
他人への思いやりが欠け、だんだんと人間関係がとげとげしくなった現代、笑いの持つ意味は極めて大きい。今、「山のアナアナアナ…」を聞いたとしたら不快感を持つより、アッハッハッと笑える吃る人が私たちの仲間には増えたのではないか。
吃る人であり、ユーモアの達人でもあったイギリス首相のチャーチル。そのイギリスの教育から学んで、ユーモア教育をすすめる松岡武さんは、次のようにユーモアについて言う。
『私は、ユーモアとは、おもしろおかしいことを言って、回りの人を笑わせる才能ぐらいにしか考えていませんでした。しかし、それはひどく間違った認識であることが分かりました。
ユーモア感覚というのは、人生のどたん場の状況に追いこまれたとき、うろたえ騒がず、さりげなく肩ひじ張らずに、その苦境を切り抜けていける鍛え抜かれた精神のたくましさと人間的英知を持った人のことを言うことばだったのです』
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