新しい道を歩き始めて
堤野瑛一(25歳 会社員)
僕は、高校2年生頃からどもり始めました。何故だか言葉を発しようとすると息が詰まり、足で地面を叩かないと声が出なくなったりして、初めはこれが吃音だと分からず、「何だろう?」と思っていました。
僕は吃音である以前にチック症で、その事もあり神経科の病院へ通ったところ、先生の前でどもると、「あー、どもりの症状も出ているのかあ」と言われ、そこで初めて自分の声の出ない症状が吃音である事を知りました。
初めは家族の前でしか出なかった吃音の症状も、次第に学校でも友達の前でも出るようになり、悩み始めました。しかしその頃、僕が吃音で悩んでいる事を、学校の先生や友達は誰も知りませんでした。僕が「あ、どもる」と思うと、喋るのを止めたり、何とか言い換えをしたりと、どもりを隠し続けていたからです。授業中に当てられても、分かっている答えがどうしてもどもって言えなくて、渋々「分かりません」と答えた経験も、多々あります。
僕はこの高校2年生の頃、吃音になった傍ら、ピアノで芸術大学を受験することを決心しました。それまでは殆ど趣味感覚でやっていたピアノを、受験に向けて真剣に勉強するようになりました。ピアノを練習している間は、吃音の事などは考えていませんでした。それよりも芸大に合格する事で頭がいっぱいでした。芸大に行ければ、どれだけ幸せだろうと思い、無我夢中で一日に何時間でも、ピアノを練習していました。結果、僕は芸大に合格しました。あの合格発表の時の喜び、感動はこの上ないもので、今でも忘れません。僕は早く高校を卒業したくて溜まらなく、夢や希望を大きく膨らませながら、大学に入学する日を毎日ウキウキしながら待っていました。
しかし大学は、僕の思っていた様な楽しい場所などではなく、自分にとっては辛く厳しい場所でした。大学入学後、どの授業に出ても、まず自己紹介をさせられます。高校の頃は、どもっては困る場面からは何とか逃げてごまかして来ましたが、この時ばかりは逃げようがありません。とうとう自分の自己紹介の番がやって来ました。すると、案の定、どもってどもって自分の名前の最初の音が出て来ません。必死に言おうとしますが、10秒、20秒たっても言葉が出て来ません。その間の僕のどもって力んでいる顔をチラチラ見ては、周りがクスクスと笑い出します。やっとの事で言えましたが、僕はその後授業に没頭出来る筈もなく、何とも言えない恥辱感、屈辱感にかられました。そしてどの授業でも、いつ自分が当てられるかと、いつもビクビクしていました。また、声楽の試験の時は、大勢の生徒や審査員の先生がいる前で、自分の生徒番号と名前、歌う曲目を言わなければなりませんでしたが、勿論これも失敗しました。それに、ピアノや声楽の試験の結果を、自分の門下の先生に電話報告しなければなりませんでした。その上大学は、中学や高校の様に担任の先生がいるわけでもないので、必要な書類などは自分で事務室に言って自分の口で説明し、貰わなくてはならないし、何かと吃音では不便な事だらけでした。高校生の時のように、何とか吃音を隠してごまかしながら、という風にはいきませんでした。
そんなこんなで、僕の吃音に対する恐怖は、高校の頃よりも何倍にも膨れ上がり、結果、どもりを隠したままではまともに友達と会話も出来ないほど、症状は酷いものになりました。それに伴い、勉強やピアノの練習を続けていく気力も、だんだんと薄れてきました。入学前に描いていた大学生活のイメージと、入学後の現実は、雲泥の差でした。結局僕は、もうやっていけないと思い、大学を中退しました。あれだけ努力し、夢に見て、自分の力で入った大学を、今度は自分の意志で中退しました。「中退せざるを得なくなった」と言った方が適切かも知れません。あの受験の為の努力や、合格発表の時の喜びは一体何だったのだろうと、途方に暮れました。この時「どもっていては人生は開けない、お先真っ暗だ」とか、「吃音が俺の人生を狂わせた」とか、「何としてでもどもりを治さなくてはならない」とか、「どもりさえ治れば、俺の人生は切り開かれる」とか、そんな事ばかりを強く思っていました。そんな思いで、それから数年間、「どもりが治るかも知れない」と聞けば、どこへでも行きました。はり、催眠、お灸、気孔、整体…と、色んな事を試しました。しかし結果、どれも全く効果がありませんでした。行く先々に、初めはどうしても大きな期待をもってしまうので、治らなかった時のショックも、大きなものでした。そして徐々に、「どもりは絶対治らないものだ」という意識も強くなっていき、治すことを諦めざるを得ない状況になって来ました。
そして僕が最後に行こうと決心したのが、「大阪吃音教室」です。実は、大学在学中にも一度だけ、吃音教室に顔を出した事がありました。その時僕は、驚きました。教室のみんながどもりを隠しもせず、わきあいあいと喋っているのです。そして、「どもりながら生きていこう、どもりと仲良く付き合おう」と言うのです。しかしその時の僕には、そんな考え方は絶対に受け入れられませんでした。「隠さずにどもろう」とか、「どもりと仲良く」なんて、絶対に考えられませんでした。むしろ、「どもりが治らなければ絶対に良い人生は送れない、絶対に治さなければ」と強く思っていました。そして僕はこの吃音教室の考え方がどうしても受け入れられず、それっきり通わなくなりました。
しかし、大学中退後、さんざん何年間も吃音の治療を試みて、全く治らなかった現実と向き合った以上、「自分はどもりとして生きていくしかないのか」と思うしかありません。ようやくそう思い始める事が出来た時ふと、大阪吃音教室の事が頭によぎったのです。
「あそこには吃音を受け入れて生きていこうと言う仲間がたくさんいる。」そう思ったのです。僕は大阪吃音教室に通う事を決心しました。今年の7月以来、毎週欠かさず通っています。吃音は治るに越した事はありませんが、今僕は、吃音を治そうとは思いません。どうあがいたって治らない事を知っていますし、絶対に治らないものを治そうと努力すれば、決して幸せにはなれない事を、よく知っているからです。
大阪吃音教室のみんなと、どもりながらでも上手に生き、吃音とうまく付き合えるようになればな、と思っています。
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