2023年度 最優秀賞
「自分」を求めて
藤本 悠紳(ふじもと ゆうしん)
私は生まれつき重度の心臓病だった。
愛知県に住んでいた私は、小学校5年生の冬に治療のため大阪の病院へ転院が決まった。ドクターヘリで病院に運ばれ、「手術を受けなければもう長くはない。」そう告げられ、死ぬかもしれないという恐怖を感じながら手術の説明を受けた。その内容は、心臓に直接機械を植え込み、お腹からその機械のコードが出ているというあまりに現実離れした内容だった。私はそんな凄惨な手術内容を受け入れられず、心は荒み医者や看護師に暴言を吐くようになっていった。自分の気持が分かる人なんていない。周りの大人は全て敵だ。信頼できる人も悩みを相談できる人もおらず、私は一人殻の中に閉じこもるようになった。
ある日、CLS(チャイルド・ライフ・スペシャリスト)に院内学級に行ってみないかと提案された。誰も自分の苦しみを理解できないのに誰かと関わっても仕方がない。初めはそう拒んでいたが、重い腰を上げ試しに足を運んでみた。
そこには、同じ年くらいの長期で入院し、それぞれが大きな病と闘っている子どもたちがいた。すぐに意気投合し、毎日みんなで集まって遊ぶようになった。受け入れられなかった手術も、共に闘う仲間のおかげで前向きに立ち向かう勇気が持てた。手術は無事成功し再び仲間たちと遊ぶ日々が続き、とても楽しい入院生活を送っていた。
しかし同時に大きな問題も生じていた。それは、私は思ったことをすぐに口に出してしまう性格だったことだ。
入院をしている子どもたちはみな生きるか死ぬかの闘いをしている。そんな生活を毎日続けていては、どうしても心は弱くなってしまう。
そんなとき、仲の良かった友達の一人が亡くなった。とてもショックだった。だが、まだ小学生ということもあり「死」というものに対してあまり実感がなく、比較的すんなりと受け入れられたと思う。しかし人によってはその知らせを聞くことで自身の境遇と重ね、とてつもない不安や恐怖に襲われる可能性がある。なので、周りの大人たちからは「このことは絶対に他の子に言ってはいけないよ。」と告げられた。当時の私にはその言葉に隠された意味が分からず、院内学級にいる子ども達に言いふらしてしまった。親にも院内学級の先生にもこっぴどく注意をされ、以降冷たい視線を送られるようになった。
それから私は自分の行動が周りにどのような影響を与えるかを考えるようになった。これを言うと相手はどう思うかな。これを言うと相手は悲しむかな。ここでUFOを食べると匂いが病室に充満して食事制限がかかっている人がいたらかわいそうだな。様々なことを考えたが、結局何が正解なのか分からないまま退院をした。
退院をした後も月に一度病院に赴き、血液検査などの検査を行い薬の調整をしていた。
ある日検査の受付をする際、私は絶望した。どもって名前が言えないのだ。検査を受けるためには、合計3度フルネームを言わなければならない場面がある。私の後ろには受付を待つ人が大勢いる。だが、何度言おうとしても最初の一音がでない。いつまで経っても名前を言わない私に受付の人は少し怖い顔をして「お名前は?」と繰り返す。とても辛かった。今度は言えるかな。今度はどもらないかな。検査を受ける一週間程前から不安に襲われるようになり、いざ名前を言うときには心臓の鼓動が早くなるのを感じた。毎月やってくる逃げ場のない地獄を、一人孤独に歩み続けた。
それからしばらくして、周りの視線や受付の人の反応などから吃音は恥ずかしいこと、名前も言えない無能な人間だと自分を責めるようになり、吃音を持っていることがバレないよう人と関わることを避けるようになった。
私が高校生の時、コロナが流行した。コロナ禍での生活は、私にとって理想的なものだった。
私は薬の作用で免疫力が低下しているため、学校にお願いをして私だけ隔離授業をしてもらい毎日一人で過ごしていた。そのおかげでクラスメイトと会うことも、みんなと一緒に授業を受けることもなかったのだ。辛い音読の授業も、数学の問題解説のために前に出ることもない。とても落ち着いて安心した学校生活を送ることが出来た。
だが、高校を卒業し大学に入ってしばらくした後、コロナによる制限の緩和が施された。私は再び絶望した。なぜなら、ちょうどその年からグループワークの必修科目が入ってきたのだ。ずっと避けてきたことを余儀なくされ、私の心はあっさりと砕け散った。人と関わることへの不安や恐怖心が最高潮に達し、大学2年生の後期、突然学校に行けなくなった。
精神的に滅入ってしまった私は、一人で出かけることも、コンビニで買い物をすることさえも出来なくなってしまった。休学届を提出ししばらくの間心を休めることに専念することにした。しかし、心を休めると言っても何をすればいいのか分からず、ただ家でゲームをするだけの日々が続いた。このままでは何もせずに休学期間を終えてしまう。
そう思っていたある日、母親に大阪吃音教室に行ってみないかと提案された。名前だけを聞くと何となく胡散臭さを感じ少し戸惑ったが、他に手立てもなく藁にもすがる思いで参加を決意した。
何度か参加をし、参加者の方々の体験や辛い想い、悩みに触れ、吃音によって苦しい思いをしているのは自分だけじゃないんだ!と、気づくことができた。伊藤さんからの暖かい言葉や論理療法、ライフサイクル論などの精神療法を学んでいくうちに、今まで抱え込んでいた辛い想いや孤独感が薄れ、大阪吃音教室に通うことが毎週の楽しみになっていった。
しばらく教室に通い、少しずつ以前のような吃音に対する不安や恐怖が小さくなっていったため、3年生の前期から復学することを決意した。
ただ、吃音に対する考え方が変わりだしたのはいいものの、私の心はまだ得体のしれないもやもやを抱えていた。その正体が一体何なのか。それを探るため、自分なりに色々と調べてみた。
そこで私は岡田斗司夫さんが提唱した「社会生物本能の4タイプ」というのを見つけた。それは、人間を欲求のタイプにより4つに分類するというものだった。その分類は注目型・司令型・法則型・理想型に分けられる。
実際に自分がどこに属するかのテストをインターネットで受けることができ、私は理想形と診断された。そして、記事にはそれぞれのタイプの特徴や具体例などが詳細に書いてあり、私はそれに興味を惹かれ熱心に読んだ。
理想形の特徴としては、自分の好きなことをとことん追求し、細かいところにもこだわる職人気質である。自分の中に強い信念のようなものを持っており、自分の価値観やこだわりを理解されたり認められたりすることで強い喜びを感じるそうだ。それ以外にも多くの具体例や特徴が書いてあった。
そうして読んでいくうちに、どういう訳か私が今まで経験してきたちょっとしたストレスから耐え難い経験までの辛い思い出が、一斉に頭をよぎったのだ。とっても辛い瞬間だった。
だが、私は全く怖気づかなかった。それらが頭をよぎったのと同時に、抱えていたもやもやの中から一筋の光が降り注いだのだ。私はすぐに、それがもやもやを解決するカギだと気がついた。これを逃してしまえば、私はずっと捉えどころのない苦しみから解放されないだろう。そう考え、その光を逃すまいと頭に浮かんできた全ての考えを必死にノートに書き出した。何日も何日も。
そうしていると、これまで抱え込んで肩に乗っかっていた重荷が軽くなっていくのを感じた。
これまで私はずっと、どもりだした原因を探していた。そしてその原因は闘病生活の時に経験した辛い思い出のせいだと思い込み、自らの過去を否定する日々を送っていた。
しかし、岡田さんの「社会生物本能の4タイプ」を知り、実際に自分の考えをノートに記していくことで「私はこのままで良いんだ。私は私なんだ。」と自分を認めることが出来るようになった。
そうして自分に自信が持てたことで、どもることに対しての不安や恐怖も今はほとんど無くなり、大好きなラーメン屋やコーヒー屋巡りを楽しんでいる。
【作者感想】
最優秀賞ありがとうございます。とても嬉しいです。
今回「ことば文学賞」に応募するに当たって、私の経験を、一から振り返りました。ノートにひたすら考えを書いたときのように、自分と向き合い、本当に伝えたいことは何なのかを考えました。
悩みを抱えたとき、自分に合った方法で、「自分」がどうしたいのか、どうなりたいのかを模索する。当たり前のように思えて、すごく難しいことです。自己分析をするということは、自分にとって良い面も、悪い面も見えてしまう。しかし、それを乗り越えてこそ本当の自分が見えてくるのだと、私はどもりを通して強く実感しました。
「自分」を知り、受け入れることの大切さを伝えてくれたどもりには、感謝してもしきれません。
2023年度受賞全作品ページ
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2023年度 優秀賞
菜の花
鈴木 永弘(すずき ながひろ)
まだ空気は少し冷たかったが背後から降り注ぐ陽の光は暖かく、実家の隣にある畑で中腰になっている私の背中と足元の土を温めてくれている。「これは父が植えたのだろうか。」そう考えながら見つめる菜の花の周りを一匹のミツバチが飛び回っている。
「大根は花が白いから、これは蕪の花やな。」
俯いていたので近づいて来たことに気づかなかったが、この辺一帯の畑の管理を任されている近所のおじいさんがいつの間にか私のすぐそばに来て話し掛けてきた。
「えっ、菜の花って大根とか蕪なんですか。これ食べられますか?」
「もちろんや。つぼみだけやなくて、ほらこんな小さい花も食べられるで。摘んで帰ってお浸しにでもしたら美味しいで。」
こんな身近で無造作に育っている植物が食べられるのか。改めて考えると、畑で育った植物が食べられるのは当たり前のことだが、畑の中だからといって、放置されている作物から咲き始めた花のつぼみを摘んで食べるという行為が、この時の私に驚きと幾らかの高揚感を与えてくれた。でも菜の花のつぼみを摘んで食べることは楽しみだけれど、ミツバチの邪魔をしないように、黄色い花を採るのはやめておこうと考えていた。
「今までうちの畑で菜の花が咲いていたことはなかったから、採りたての菜の花が食べられるってちょっと嬉しいです。なんで今まで咲いてなかったんかな?」
「お父さんは昔の人やからな。収穫できるうちに全部採ってしまうから、菜の花が咲くまで放っておくことはなかったんやろ。」
「お父さん、具合が良くないんか? 最近、畑に出て来んようになったけど」
「もうかなり高齢なんで、最近はほとんど寝てばかりです。」
母は今年になってから認知症が進み、自分の身の回りの事が出来なくなってきた。また父も足腰が弱って母の介護が充分に出来なくなり、近頃は私が隔日で実家に来るようになっていた。
「お父さん、もう畑仕事は無理かな。あんたが代わりに畑したらどないや。」
「未経験やけど出来ますかね。」
「わからんことがあったら、教えたるから。大丈夫や。出来るわ。」
隣に建っている実家の方に視線を移すと、茶の間の窓を母が閉めている姿が目に入った。
外では蝶や蜂が飛び回り、温められた地中でもミミズや虫たちが活動を始めていることだろう。しかし家の中は肌寒く両親はまだ冬の服装で電気炬燵に入っている。今朝、少しの時間でも外の空気と温かい光を取り入れようと私が開けた窓も、すりガラスの扉ですぐに閉ざされてしまうのだった。
「これ今日の収穫。柔らかくて美味しそうやろ。」
「どうしたん? それ。」
「実家の畑に生えててん。知ってる? 菜の花って黄色だけと違うねんで。大根とか蕪、白菜、水菜なんかのアブラナ科の野菜の新芽で、冬の野菜をそのまま置いといたら春に芽が出てきて食べられるらしいで。スーパーに売ってるのはそれ用に育てたもんみたいやけどな。」
実家の畑で採れた菜の花はかなりの量になり、持って帰って来たそれを、ネットで調べたウンチクを喋りながら妻に見せた。
「最近な、周りの畑の管理をしてるおじいちゃんと話をするようになってん。昔から近所に住んでた人やけど、今まで一度も話をしたことはなかってんけどな。」
「へえ、実家で介護するだけやなくて、話をする人が出来てよかったやん。」
「前にも話したけど、若い頃は吃音に悩んでて就職もでけへんで、ちょっと引きこもりがちやったやんか。うちの親も近所の人達に息子の話とかせえへんかってん、親戚とかにも隠してた感じやったからな。だから僕は今になってようやくご近所さんと交流してる感じやわ。あっ、今も母が家の窓をすぐ閉めるのは、昔息子の存在を内緒にしていたのが原因かな」
「それとは関係ないんとちゃうん。歳を取ったら寒さをより強く感じるからとか、お母さんは認知症になっていつも不安があるからとかなんじゃない。」
「そうかなぁ。」
父は長い間、期待通りにならなかった僕のことを悔やんでいたように思う。父は怒りっぽく子供の教育は母親の役目と決めつけていたので、父との会話は母を介して話をすることが多かった。父親は居てるのに不在みたいな感覚だった。そのため今でも父との会話は必要最小限になっていて、できれば話をしたくはない。そういえば母が認知症初期の頃、一緒に行った病院の帰りに『あんたが子供の頃、あいつがどもるのはお前の教育のせいやって、お父さんによく責められたわ』って昔の話をされたこともあった。
今、妻とは吃音のことも過去に悩んで苦しんだことも何でもよく話をしている。
「でもさぁ、前に聞いてた話やと昔からとても厳しくされて、お父さんのこと好きじゃなかったってことやん。それやのに今は親の面倒を見に行って、偉いなぁって思うけど、なんでそんなに一生懸命に介護をしに行けるのん?」
「偉いからとは違うかな。自分が納得したいだけかな。ミツバチが蜜を集めている花を摘まへんのと一緒かな。自分なりに決めた正しい行動を守るっていう拘りやな。」
「何それ。よくわからんけど。でも、仕事も介護もして偉いと思うよ。」
「介護してるっていうても、洗濯・掃除や料理を作ったり、自分のする事だけをして、両親とはほとんどコミュニケーションを取ろうとしてないし。なんかヘルパーさんみたいに仕事をこなしてるだけな感じやわ。親に対する愛情が自分でも感じられへんし、父も自分の思いや拘りだけで只々厳しく育てただけで、母はそれに従っただけで、相手の気持ちを考えられへん似た者親子かな。」
父は僕のことを根性がないという一言で一方的に決めつけていた。努力が足りない。挑戦しない。一つの事柄を全うしない。と言われ続けてきたが、僕もそのことに関しては「そうかもしれない」と思っていた。しかし、人より努力しよう。大きな挑戦をしよう。とは思わず、根性論は嫌いだった。人生の一番の課題であった吃音に対しても克服しようなどと考えたことはなく、吃音と向き合おうとすることもなかった。吃音の悩みはまるで宇宙のように大きく、ただ悩むだけ、「しゃあないやん」と、そのまま放置してなんとなく辛さを和らげるように暮していこうと決めていた。
父は今でも、認知症で出来ない事が当然であるはずの、母の行為にイラついてよく愚痴をこぼしている。僕の性格や行動、吃音のことまで否定していたように、そのまま見過ごすことはできないのだろう。
「最近、畑で挨拶することが増えてきてな。おはようございますとか。離れてたりすると大きな声を出さんとあかんやろ。声出にくいねんな。どもるわ。やっぱり落ち込むなぁ」
「そうなん。でも今は、どもることで悩んだりはしてないんでしょう。」
「まあな、どもりで悩むことは大分減ったかな。」
「じゃあ別にいいんちゃう。気分が落ち込んだりするのは、しゃあないやん。皆そんなもんやん。今まではどもる事とか親子関係でも大変な事がいっぱいあって、悩むこともいっぱいあったけど、今は“ええ感じ”なんやないのん。私は毎日“ええ感じ”やよ。」
「そやな、日々の暮らしは“ええ感じ”やな。」
「“ええ感じ”やろ。そしたら日々幸せってことでいいやん。」
「そんなもんかな。」
「あっそうや、今日はご飯の準備をもうしてるから、菜の花は明日の夕飯に出そうと思うけど、からし和えでいい?」
「からし和え、いいなぁ、自分で収穫した菜の花を食べるって、幸せやな。」
二日後に実家に行くと、父は身体がしんどいと言いながらも、電動カートで買い物に出掛け、甘いお菓子とバナナを買ってきて、母と一緒に食べていた。相変わらず食べている時の会話はないが、これも妻の言う“ええ感じ”なんだろうか。人は簡単には変われないのだ。
夕方、おもてに出てこれから野菜作りに励むことになるであろう畑の様子を見に行った。今日の父は買物に行けるくらい身体の調子が良かったのか、そこには菜の花が全て引き抜かれ倒されていた。「今日も菜の花を摘もうと思っていたのに。」と一人つぶやいてみたが、頭の中ではミツバチが飛んでいる姿を思い浮かべていた。
その日帰って食べた菜の花のからし和えは、ほんのりと蕪の香りがした。
【作者感想】
春先にこの文章を書き、今はもう夏が終わろうとしています。半年近い時間が流れ、母の認知症は徐々に進行し父は寝て過ごすことが増えました。それに伴い、介護や家事に費やす時間も増えています。
そんな状況でも春に始めた畑仕事は続けています。野菜を育てることの苦労や面白さ、奥深さを実感しています。介護をしながらも親と未だ向き合うことが出来ないままですが、今は作物や自然と向き合わされています。
今も、畑で遠くにいる人に挨拶をする時は大きな声が出てきません。身振りで挨拶をしたあとに声を出しています。
今回、ことば文学賞優秀賞をいただき、ありがとうございました。時間に追われる暮らしの中でも、その時の出来事をこうして文章に書けることを幸せに思います。
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2023年度 優秀賞
どもり 〜大きくて小さな問題〜
吉本 佳子(よしもと かこ)
吃音に対して自分が変わったのは、今も鮮明に覚えている、初めて参加した吃音講習会だった。ここで伊藤伸二さんの「吃音を治すことにこだわらない吃音とのつき合い方」の考えに触れたこと、また橋本貴子さんの吃音作文で「カ行とタ行が言いにくい。電話でありがとうございますのアがでないのがしんどい」というのを聞いて私と同じと思ったこと、そしてもう一つどもりはこんなふうに大きな会で取り上げられるような問題だとわかったことで私の中の何か楽になった。
私はどもりをずっと否定して生きてきた。どもるから音読でつまってクラスで笑われた、どもるから行きたい大学に行けなかった、どもるから面接で失敗し希望のところに就職できなかった、もしどもりがなかったらもっといい人生だったに違いない、とずっと思っていた。また、私は、どもりは個人的で小さな問題で、大きな問題にしてはいけないこととなんとなく思い込んでいた。だから、学生時代にどもりでつらくても、気にしないふりをしていた。父もどもるのだが、父に相談しても「そんなこと気にしなくていい」としか言われなかったので、問題を大きくすることは恥ずかしいことだと思っていた。
私のどもりを気づかってくれた人は学生時代に二人いた。一人目は高校一年生のときの英語の先生で、私がリーディングのときにどもって止まってしまった日の放課後、その先生に職員室に呼びだされ、自分も昔はどもりだったけど、今こうやって先生をやっている、どもっても気にするな、ということを言ってくださった。その先生は学年が変わってもときどき「調子はどうだ」など気にかけてくださった。しかし、私は、先生は大丈夫でも私は大丈夫じゃないと思っていて、どもっても大丈夫と信じることはできなかった。二人目は大学の弓道部のM先輩だった。M先輩は特別支援学校の先生になるための課程を専攻されていた。先輩は私がときどきひどくどもるのを気にしていてくださっていたようで、ゼミの教授がどもりにくわしい人だから相談したらいいと、その教授に面談のアポを取り付けてくださった。実はその教授とは大阪吃音教室とも縁のある水町敏郎先生だった(このときまだ日本吃音臨床研究会はできていない)。教授との面談で特になにを話したかははっきりと覚えていないのだが、「どもるときもあるけど、どもらないときもあるから大丈夫です」「どもってもそんなに気にしているわけじゃないんです」など、心の中はヒリヒリしていたけれど、強がったことばかりを早口で言っていたと思う。先生はそんな私の話をニコニコ聞いてくださった。特にこうしたほうがいいというアドバイスはなかった。そんな面談が週に一度、一ヶ月くらい続いたが、部活の大きな大会が近くなり授業の空きコマも練習に行くことを優先したくなったので、また時間ができたらお願いしますと言って面談には行かなくなった。今思い返すと、先生は私が強がっているのに気がついて、私が本当はつらいのに気づくのを待っていてくださったのかもしれない。つらいと気づかない人に、何か言ってもお説教になるだけで、反発を生むだけだからだ。
この後、就職活動の面接ではどもって自分の名前が言えず落ち込み、うまく自己アピールができぬまま終わってたくさん落ちた。就職してからも電話応対などでどもって落ち込むことが多くあった。就職活動で何社も落ちた後、両親には「どもるからつらい」ということを打ち明けた。父は相変わらず「そんなことぐらい」という態度だったが、母は真剣に向き合ってくれるようになった。「つらい」と言えたことで私は少し楽になれた。実のところ、電話応対にしても、いつもどもっていたわけではない。会社名や相手の名前に少しずつ慣れてきて、どもらずに言えること七、どもってしまったこと三くらいになった。ただ、その3をいつまでも引きずって、私の20代は暗いままだった。30歳になったときに、大阪吃音教室の夏の吃音講習会のことを知り、参加した。そのとき冒頭で述べたような変化が私に訪れた。吃音は治さなくてよくて、私と同じように特定の音や電話の取り次ぎでどもる橋本さんに出会って、吃音と言うちゃんとした学問の分野があって、それらが私の中に落ちたとき、強がっていた自分も、強がれなくなって落ち込んでいた自分も消えて、赤ん坊になってしまったような自分がいた。生きていけると思った。
あのとき何故私の中にそれらがすっと入ったのか考えるのだが、それはタイミングとしかいいようがない。行き詰まってどうしようもない事態を経験してようやく素直になれたのだと思う。また、吃音はたいした問題ではないから問題にするのは恥ずかしいことという思い込みが消え、吃音はちゃんと研究される大きな問題だからそれをオープンにしてもいいと思えるようになったこと、つらいことをつらいと認める勇気をもてたこと、そう思える場に出会えたこと、それらが合わさってようやく私は成長できる地点にきたのだと思う。私はせっかく水町先生と早い段階で出会う機会があったのに、あのときの私はその機会を生かせる土台を持っていなかったのだ。
また、私はどもりが完全に治らなければ、幸福にはなれないと思っていた。でも、大阪吃音教室に出会えたことで、どもりがあっても大丈夫と思えるようになった。今も電話などでどもることがあるが、ちゃんと要件を聞いて受け答えできたのだから大丈夫と思い、どもったことを気にして落ち込むことはなくなった。
不思議なもので、強がっていたときは「どもりはたいした問題ではない」と思い込んでいて、どもりは吃音という「ちゃんと研究される大きな問題」とわかったところで、「どもるけどそれはたいした問題ではない」と思えるようになった。螺旋階段を一周登ってもとの位置のところにきた、でもそこからは以前とは違う景色が見えるようになっていたのである。
余談であるが、昔から思い込みが強く、何にでもすぐ「自分は無理だ」と思うところはあった。大阪吃音教室に関わりだして、竹内敏晴さんのオープンレッスンを見て、もともと演劇が好きだったのでいいなあと思い、竹内レッスンに参加するようになった。最初のころ「椅子のエチュード」という課題に取り組むことがあった。竹内さんは椅子が一つだけ置いてある舞台で、そこに立ってから自分の感じるように動いてと言われたが、私は即座にそんなのは無理だと思い、病院の待合室の椅子ってことにしようと設定を頭の中で作って舞台で動いてしまった。それを見た竹内さんから「僕はそこで感じたように動いてと言ったはずだ。あなたは自分の思い込みで動いてしまってる。それじゃだめだ、僕の言っていることを素直に聞いて、とにかくやってみたらどうだ」と怒られた。この言葉で最初に思い浮かんだのは、実は弓道のことだった。弓道は左手で弓を押し、右手に「かけ」という革製の手袋のようなものをして弦(つる)を引くのだが、このとき弦を右手の親指の内側に引っかけ、中指は暴発防止のため親指の爪の上に軽くのせるだけで、決して指先で弦を握ってはいけない。しかし、私は恐くてずっと弦にしがみつくように握って引いていた。だから中(あた)りも悪いし、昇段試験も三段以上昇段できなかった。周りの先輩方からも「右手の力をもっとぬかないと」と何度も言われていたが、私は無理と思ってぬけなかった。しかし、この竹内レッスンを受けた後、ものすごく怖かったが右手の弦を握る力をぬいてみた。意外とできた。そして的中も上がり出し、昇段試験も受かることができた。わかるにはわかるのタイミングがあるのだ。この竹内レッスンでの経験も私の人生を変えた出来事であった。
【作者感想】
優秀賞ありがとうございます。人生を変える出来事というのはそうたびたびあることではないと思いますが、私の人生を大きく変えたのは、2002年の夏に大阪での吃音講習会に参加した出会ったことだと断言できます。この後地元で職場の人や友達に、吃音講習会のことや自分のどもりのことを話したのですが、反応が薄いばかりか「あんまりどもるって言わない方がいいよ」と言われ、そんなものかと落ち込みましたが、吃音の相談を受けるようになり、オープンにしてよかったと思えるようになりました。
吃音講習会の参加を迷っていたとき、これを勧めてくださった方の「動けるときに動きなさい」の言葉に背中を押され参加を決めました。その後も、参加できるときはショートコースや竹内レッスンに参加してきました。それらが、今私の人生を豊かにしてくれていると思います。
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2023年度 審査員特別賞
理想の職場
南 泰成(みなみ やすなり)
私の仕事はプログラマーである。主に企業のウェブサイトのシステム開発業務を担当している。転職をしてから早くも4年が経とうとしている。改めて現職に採用されるまでの経緯を振り返ってみた。
前職では靴下の卸販売の会社におよそ6年間勤めていた。自社製品のネット販売や、顧客への営業、商品の出荷作業など、幅広い業務を担当していた。
幸い吃音に対しては非常に理解のある会社だった。朝礼で司会を担当した時のスピーチや標語の読み上げ、業務での報告などでかなりどもることがよくあったが、特に注意されることもなく、最後まで言いたいことを聞いてもらえる環境だった。
しかし、零細企業で給与や休暇などの待遇面があまりよくはなかった。また、経営者から社員へのパワハラがあったり、敬遠方針も納得ができることばかりではなかったり、常にストレスが溜まることが多かった。決して、長く勤めたいと思える会社ではなかった。
このままこの会社に長く勤め続けていても未来は明るくないと思い、1日でも早く退職をしたいと思うようになった。会社に行くことが億劫で朝起きられないほどだった。入社して2年目に転職活動をすることに決めた。
学生時代から目指していて、一度は就職活動が上手くいかずに断念したプログラマーに再挑戦したいとの思いもあった。求人サイトで興味のある求人に応募して、面接を受けることから始めた。
当時は、大阪吃音教室に数年間通っていたおかげで、吃音で落ち込んだりすることは以前に比べてほとんどなかったが、吃音の症状自体は隠すことがなくなったので、以前よりもひどくなっていた。
そうとは言っても、転職活動で、企業の担当者は面接を受けて合否を判定する。吃音で言葉が出ずにひどくどもって上手く喋れないと 、面接では不利になることは承知していた。事前対策として、履歴書に自分がどもることを予め記載した。面接ではどもりながらも笑顔で精一杯自分自身をアピールした。
しかし、結果は思うようにいかず、不採用が続いた。不採用の理由は「コミュニケーション力が不足している」からと伝えられることがあった。面接を受けた企業は大半が客先に常駐して仕事をする会社で、いずれもコミュニケーション力を非常に重視していた。人柄やスキルがいくらよくても、流暢に話せなければ客先に迷惑をかけるから採用は難しいとのことだ。吃音を隠すことはない、恥ずかしくないと頭ではわかっていたが、吃音が自分が転職するのはやはり難しいのかと落ち込んだ。
転職活動を始めて1年間で30社くらいの面接を受けたが成果が出ず、残業が多くて忙しい仕事との両立にも疲れてしまい、一旦転職活動を中断した。仕事がいくら辛いと言えども、次の働き先が決まっていないのに辞める勇気はなかった。おそらく今辞めてしまうと、就職ができなかった場合、ずっと家に引きこもってしまうと考えたからだ。
その後も相変わらず息苦しい毎日を耐えながら 、前職の仕事を続けていた。時間が過ぎるのは本当に早く、気がついたらあっという間に入社して5年、30歳になっていた。
未経験でプログラマーになるには今が最後かもしれない、このままだと今の会社で一生働かなければならないかも知れないと、焦りや将来への不安を感じ始め、面接は嫌だが転職活動をまた再開することにした。
今回は一人で転職活動をしても結果は前と同じで、すぐに決まらないと思い、転職支援エージェントのサービスに申し込んだ。また、プログラマーとしての実務が未経験でも、やる気と能力をアピールしようと、仕事帰りにプログラミングスクールにも通い始めた。担当エージェントには自分が面接でどもることや就職活動の不安などを相談し、本番を想定しての面接練習を10回以上してもらった。求人は50社以上紹介してもらい、少しでも興味があれば全て応募した。年齢が原因なのか、未経験歓迎の求人でも書類選考になかなか通過しなかったからだ。
最初の2ヶ月で8社くらいの面接を受けた。事前に面接の練習をしたこともあり、本番では緊張してどもりながらも自信を持って受け答えができ、いずれも手応えは多少あった。
しかし、結果は全て不採用だった。相変わらず、不採用の理由はコミュニケーション不足と書かれていた。不採用の結果を聞いた時はやはり辛かったが、今回こそは絶対転職を成功させる、成功するまで諦めないと決めていたので、引き続き求人を紹介してもらいながら応募し続けた。
その後、ある会社に応募して、書類選考に通過した。客先常駐ではなく自社で100%開発をするWeb系の会社なので、コミニュケーション力はそれほど重視されないと思ったのが応募理由だった。面接での雰囲気はかなり良くてリラックスをしながら話すことができた。相変わらずどもりながらも、しっかり自分の言葉でアピールすることができた。社長に「コミュニケーションが苦手でも、仕事で成果を出せばいい。うちの会社にはコミュニケーションが苦手で、何を言っているかわからない人もいるが、みんな一生懸命仕事を頑張って社内に貢献してくれている」と言っていただいた。こんなことを言ってもらえる会社は、今までで初めてだった。その言葉に大変感動し、是非この会社で働きたいと思った。
面接から2日後に担当エージェントから内定が決まったとの連絡があった。新しい仕事がついに決まり、前職を退職することができる。今まで経験したことがないほど嬉しかった。
入社後は先輩方に基礎からしっかりと仕事を教えていただき、徐々に戦力になりつつある。吃音に対しても特に悩みはない。質問や報告をするときに多少どもることがあるが、社内に私の吃音について事前に周知していただいていたようで、安心してコミュニケーションを取ることができている。
新型コロナウイルスの影響で、現職では2020年の4月からテレワークが始まり、3年以上たった今現在でもほぼ毎日自宅で仕事をしている。出社するのは1ヶ月に1回あるかないかだ。業務のコミュニケーションは全てメールやチャットツールで成立しているため、出社して直接会話することと比べて何一つ変わりないと感じる。どもる私にとって、喋る必要がほとんどないことはかなり楽ではあるが、家族以外の人と話すことがほとんどなく、どもることが極端に減ったことを少し寂しく感じている。最近は、会話の仕方を少し忘れかけている気がする。
最後になるが、これからも初心を忘れず日々新しい技術を学び続け、今以上に会社の業務に貢献できるように頑張るつもりだ。今思うと、前職での業務は確かに辛かったが、現職と同様に吃音に関しては本当に理解のある会社だったと思う。今後、世の中にコミュニケーション能力だけでなく、人柄や能力を評価してくれる会社がもっと増えることを切に願いたい。
【作者感想】
審査員特別賞をいただきありがとうございました。
世の中の企業では、まだまだ吃音に対する理解が不十分であり、どもる人々に対する偏見が依然として存在していることを、面接を何度も受けて感じました。どもることが原因で、自分が就きたかった職業に採用されず、夢をあきらめた人がいるという話を聞いたことがあります。
今の私があるのは大阪吃音教室に出会い、吃音についてのさまざまな知識を学んだおかげで考え方が前向きになれたからだと思います。いくら不採用になっても必ず吃音を理解してくれる会社があると信じて、何度もあきらめずに面接を受け続けることができました。その結果、今の会社に出会い、自分が好きな仕事に就くことができました。
今の仕事に就いて、あっという間に5年目になりました。相変わらずテレワークが続いています。まだまだ経験が浅く学ぶことが多々ありますが、これからも日々精進して成長していきたいと思います。
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2023年度 審査員特別賞
ただの会話
嶺本 憲吾(みねもと けんご)
なんだかまた鼻の調子がわるい。私はたまに副鼻腔炎になり耳鼻科に行くのだが、今回は自然に治るだろうと放置していてもう2週間になる。耳鼻科は予約で一杯で今週の土曜日はもう無理だ。となると来週の土曜日になるがそこまで待っていられない。どうしようか、行き詰まりを感じて落胆する。だが今はネットで検索するとすぐに情報がでてくる時代だ。ネットで情報を探っていると「鼻うがい」というのがでてきた。さらに探るとどうやら「ハナノア」という商品があるらしい。レビューやブログなどをさらに読み込み、私の心は決まった。通販で買おうかと迷ったが、すぐ使いたいのでドラッグストアに買いに行く。
近くのドラッグストアに着くとすぐに探し始める。店内は壁一面に薬が並べられていてわからない。しばらく薬の棚を右に左にうろうろしてみるが、見あたらない。もう今日は諦めてネットで買おう。冷凍餃子でも買って帰るかと思ったとき、店員がレジ打ちから帰ってきた。薬剤師っぽい白い服を着た若い男性だ。どうしよう声かけようか。目の前にある胃腸薬の箱を手に取り、裏に書かれている文章を読むふりをする。そのままの姿勢で30秒ほど迷った。「ハナノア」のハが言いにくい気がする。どもる気がする。話しかける時は大抵こうやって脳内シミュレーションをする。さっきの店員がチラチラ見てくる。このままでは「胃腸薬をお探しですか」と声をかけられ、そして胃腸薬について質疑応答を繰り返し、胃腸薬と冷凍餃子を買って帰る自分の姿が見える。こういうことが前にもあったような気がするため、今回は思いきって声をかけることにした。
「あの−、すみません、、、ハ、、、」、でないでない、こうなったら文字代えだ。「、、、鼻の洗浄するやつありますか」、私は先頭が出ないときよく文字をいじる。するとするりとでる時がある。これは息の流れが変わったことによるものだと思う。すなわち“鼻”に注目するのではなく“洗浄”に注目する。目をそらす、いや鼻をそらす作戦である。「ありますよ、こちらです」、おずおずと連れていかれる。ハナノアがあった。下のほうにあるじゃないか!その横に「サイナスリンス」という見慣れない商品もある。じっと見ていると「どういった症状ですか」と聞いてきた。「ちょっと蓄膿気味で鼻うがいは初めてなんです」と正直に言い、「ハ、、、ハナノアが有名ですよね」とちょっと誘導してみる。「初めてのかたには、鼻がツーンとするかもしれません。こちらの方が鼻に優しいです。私もこっちを使っています」、なんとまさかの経験者だったとは。「そうですか、聞いたことのない商品ですが、、、」と水の量とか継続使用した場合の費用とかいろいろ聞いてみる。「じゃあこっち買います。お試しで」、店員のプッシュと「ハナノア」の言いにくさもあり、よくわからない方を買って帰ることにした。
家に帰って早速試してみる。なるほど、耳鼻科で鼻の奥をストローみたいな機械で吸われてすっきりする感覚に似ている。これはいい物だと確信した。しかし、付属していた洗浄剤は10包しかなく、朝晩使用で5日でなくなってしまう。通販で注文すれば余裕で届くし店舗より安いと思うが、感謝の気持ちをこめてもう一度あの店に買いに行くことにした。
数日後、店に着いた私はまっすぐに「サイナスリンス」に向かった。何の問題もない。60包入りの商品を手に取り、チラリと横の「ハナノア」に目をやる。私がもし吃音でなかったら、「ハナノアありますか?」と聞いて、そのままスムーズに購入に至ったと思う。ほんとうに些細なことだがどもることで迷って回り道をして、自分が満足する良い結果にたどり着いた。レジに行くと、あの薬剤師がレジに入っていた。数日前のことだが覚えているかなと若干迷いつつも、「あのー、こ、この前の、は、は、、鼻のやつすごくいいですね」と声をかけた。すると私の顔とカゴの中の追加の洗浄剤の商品に気付き、「あっ、よかったですー。ありがとうございますー」と爽やかに答えてくれた。自分が薦めた商品とそれを買うお客のやりとりは、レジ周辺を満足感で包みこむ。そこにはただのやりとりを、どもることで達成感が増し、大げさに喜ぶ私の過大評価も含まれている。ただの会話を喜びに変えるなんて、どもりは幸せへの呼び水ではないかとぼんやりと考えながら家路につく。レジ袋のなかにはビールと冷凍餃子も入っている。そしてこれも私の幸せへの呼び水である。
【作者感想】
審査員特別賞をいただきありがとうございます。以前、会話のやりとりを書いた文章を読み、そういうのを書きたいなと思っていました。家庭、職場、その他のいろいろな人との会話の中で、自分が吃音であることを感じたやりとりを選びました。
ただの会話を文章にすることで、特別な会話になったような気がします。どもることを避け、会話を避けていた自分が、こういったやりとりができたことを文章にすることで、自分がどもるときの考えや思いにより強く気づくことができました。なんとなくどもったなと思うだけでは悩みの渦から抜けることができませんが、こうしてどもることを考えていくことで新たな発見をして、どもる人生を楽しむことができればいいなぁと思います。
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