2022年度 最優秀賞
がんと吃音
有馬 久未(ありま くみ)
私ががんの診断を受けたのは、2021年が終わる頃だった。
――自分の身体の違和感を放置しないでおこう。諸々は年内に終わらせてしまおう。
自分ががんだとはみじんも思っていなかった私は、11月下旬から仕事を一つひとつこなす感覚で、クリニックで紹介状を書いてもらい、初めて総合病院へ足を踏み入れた。
いくつかの検査を経て、初診から3週間後には、私は術前診断として、がんの事実を知らされたのだった。
ショックを受けたのは間違いない。しかし私は絶望しなかった。
がんの診断を受ける2週間ほど前、ある検査結果を見た医師から「がんの可能性も否定できない」と言われていた。この日、私はこのような話を聞く準備はできていなかったから、実感は湧かなかった。それでも気にならないわけはなく、その日から、インターネットを検索する時間はますます増えていった。
その中で、私が可能性を伝えられていたものと同じがん種で、治療を経験した人のインタビュー動画に行き着いた。インタビュアーは若い男性で、お世辞にも慣れた感じではない。それでも私は引き込まれ、やり取りに聴き入っていた。
この動画は10年近く前のものだった。インタビューでは、がんが見つかった経緯、治療内容、副作用や後遺症、職場への伝え方、治療と仕事の両立、職場復帰のタイミング、家族への打ち明け方とその反応、お金・保険、恋愛・結婚、一番つらかったこと、感謝していること、がんの経験から得たもの、そして今どのような生活を送っているかなど、当事者から丁寧に引き出している。インタビュアーが要所で「このお話はあくまでも○○さんの場合のことであって、ご自身の治療のことは主治医としっかり相談してくださいね」と視聴者に向けてコメントしていることにも好感が持てる。(同じがん種でも、ステージや悪性度等により治療方針が変わることは珍しくなく、視聴者が自身の治療と比較しすぎたり、懐疑的になったりすることを防ぐための配慮だと思われる。)
私が聞いていたがん種は、自分で調べた範囲では、私の年齢より一回り上の人に多いということで、なりやすい体質等の傾向は、自分に当てはまるものも、そうでないものもあった。一方で、上記の動画に出てきたインタビュイーは私よりずっと若い年齢で同じがんの診断を受けていて、自覚症状も似ている。
私が見ていた情報は国立がん研究センターが出しているエビデンスに基づいたものであり、確かな内容だったと思う。ただそれはあくまでも統計上の話であり、当然ながら、年齢分布の少ない層に該当する人もいる。そう考えると、もし私ががんだとしても、まるっきりおかしな話でもないのかもしれないな…と思うに至っていた。
こうして私は診断の日を迎える。「可能性をお伝えしていたとおり、初期の○○がんです。」やっぱりそうか…自分の人生にこんなことが起こるんだなあ……。治療方法は選べないのかな。職場に戻って、上司に伝えなければ。ありがたいことに病気の休暇制度は整っているけど、周りに負担をかけることは間違いない。入院に向け、仕事の調整をどうしよう、果たして間に合うのだろうか。親へはどう伝えよう、これが一番難関かも。色々なことが頭の中を巡ったが、極端に取り乱すことはなかったと思う。それはおそらく、身近に話を聴いてくれる人がいたことに加え、私があの動画を見ることで、具体的なイメージをある程度持てていたからだと思っている。
このインタビュアーの男性は20代の頃にがんを経験しており、当時、医療の情報は主治医に教えてもらえたものの、患者側の生活面の情報が少ないことをもどかしく思っていたという。こうした経験から、がん患者にそれぞれの経験をインタビューし、その動画を共有サイトに掲載することを思いついたそうで、現在その活動は彼が法人化したNPO団体により運営されている。
ある活動に対して、意味がある・ないという感想を持つのは適切ではないかもしれない。それでも、なんて意味のある活動だろうと思った。私はとても助けられたし、こう感じているのは私だけではないと思う。そして同時に、「この感じ、知ってる」と思った。――私の頭には、大阪吃音教室の活動が浮かんでいた。
例えば吃音に思い悩み途方に暮れている人が、大阪吃音教室の考えや活動を知ることで、どもりながら生きていくイメージを持ち、歩き出せる場合もあるだろう。そう考えると、大阪吃音教室も、なんて意味のある活動なのだろう!と改めて思った。
がんは一定の割合で命に関わり得る疾患である。がんの生存率は年々向上しているものの、その治療には厳しい副作用が伴うことが多い。これを読んでいる人の中にも、ご本人や身近な人がつらい闘病を経験した人がいるかもしれない。その意味では安易な比較には慎重になるべきであろう。それでも私は、あのインタビューの雰囲気に、大阪吃音教室に通ずるものを感じずにはいられなかった。つらい経験を出発点にしながらも、対話の姿勢があること、聞き手は当事者に敬意を持ちながらもユーモアを忘れていないこと、例えば「就職活動の面接でがんのことを伝えるか?それはどういう理由から?」「つきあう異性にはいつ打ち明ける?」という話題が度々出てくるなど、何とも既視感のあるやり取りだと感じた。
がんに関しては、このNPO団体以外にも、医療者や患者団体等により様々な研究や活動がなされており、WEBセミナーや過去の動画等で情報を得ることができる。その中で、がんと吃音の共通点を見出すことは多く、私は吃音教室での学びで得た引き出しをそっと開けては、答え合わせをしている感覚になる。実際に、「レジリエンス」「オープン・ダイアローグ」の言葉にはよく出会うし、“Cancer, so what? ”をキャッチフレーズに、がんに支配されず「がんとともに生きる」ことを目指して、がんと就労の両立の課題に取り組むプロジェクトもある。また、エビデンスのない高額な治療や人を不安にさせる誤った情報が多い中で、正しい情報を得ることの重要性も耳にする。そして、がんの予防のためにある程度は生活面で気をつけることはできるものの、偶発的にできるがんも意外と多く、必要以上に自分を責めなくてもいいのだということも学んだ。このような情報に触れる中で、これは吃音の話かな?と思うことは一度や二度ではなかった。
私が受けたのは手術のみで副作用のある治療は必要とせず、術後1週間ほどで退院し、さらに2週間の療養を経て職場復帰してからは、徐々に元の生活に戻っていった。しかしがんに関わる奥深い世界を知った私は、日常においても度々動画を見たりして、治療経験者や医療者の声に触れる生活を続けていた。
こうした日々の中、目まぐるしい年度末を越えて4月を迎え、私はなんと、大阪のがん対策を担う部署へ異動することになった。自分のがんのことを必要な人以外には伝えていなかった私にとって、この内示は晴天の霹靂だった。複雑な思いは今でもあるが、この巡り合わせにより、私はもうしばらく、この奥深い世界に身を置くこととなる。
がん患者支援において、「アピアランスケア」という言葉がある。これは抗がん剤や放射線治療の副作用として起こる脱毛、肌や爪の変化、皮膚炎、また頭頚部等のがん手術による部分的な欠損など、外見の変化に対するケアのことであり、がん拠点病院のがん相談支援センターを中心に様々な支援がなされている。
先日、仕事でアピアランスケアの専門家の話を聴く機会があった。当初、私はアピアランスケアというのは主にウィッグやメイク技術など、外見の変化を物理的にカバーする手段のことのみを指すのかなと思っていたが、実際は、外見が急速に変化することによる「周りの人からどう思われるか気になる」「こんなことなら治療する気になれない」といった根底にある不安を丁寧に聴き取り、対話しながら、心の持ちようや人との関わり方を患者とともに考えていくものであることを知った。
このように取り組む場合でも、必要に応じて皮膚科や形成外科の治療と連携したり、化粧品などの情報を提供することもあるが(がんになる前から美容が生きがいだった人に対しては、しっかりと寄り添うそうである)、それをアピアランスケアの全てとは位置づけていない。患者が納得する方法は、必ずしも治療前と同じ姿に戻ることとは限らない。どれほど美しく外見を整えても、患者自身が他の人との接触におびえて自分らしい人生を送れないのでは意味がない。また、外見が変化しても、特に気にならずに今までどおりに社会生活が送ることができれば、アピアランスケアを行う必要はないとしている。患者自身の必要に応じてある程度の見た目の工夫をしつつも、それまでの人間関係や生活基盤を失うなどして自分の人生が病気に阻まれることがないように、心理社会的な面からも、患者と社会のつながりをサポートしているというのだ。
これはまさに、吃音氷山説や論理療法等と同じ考え方に基づく話ではないか。「外見の変化の程度と、悩みの深さは比例しない」「患者の不安に乗じて特定の製品を勧めたり、不適切な情報を流す悪質なサイトもある」という言葉もよく目にする。家族が良かれと思ってウィッグを買いに行ったり、先回りして化粧のアドバイスをすると、「こんな外見の自分を家族も嫌だと思っているに違いない」という気持ちにさせてしまうこともあるという。聞けば聞くほど、私たちが日ごろ触れている吃音に対する考え方に通じるものを感じて仕方がなかった。
この専門家はこうも言及していた。「病気のことは個人情報であり、自分のがんのことをことさら人に話す必要はない。というよりも、中途半端に話すのは良くない。インターネットには『がん患者に言ってはいけない言葉』が溢れており、聞いた側は優しい人ほど何も言えなくなる。もしもがんのことを伝えるなら、相手との対等性が保てる具体的な話を必ず一緒にすること。例えば『私は飲み会に参加したいけれど、副作用で難しい時もある。もしかしたら10回に1回しか行けないかもしれないけど、その1回はどうしても参加したいので、飲み会の話があればぜひ誘ってほしい』というように。そうすれば相手は何を言って良いかが分かりやすくなる。患者さんにはこのように話している」と。涙が出そうになった。これはまさにアサーションではないか。そして吃音の公表や説明の際の大いなるヒントにもなる。
私はがんになり、治療は軽度だったとはいえ、今後の人生で諦めなければならないことはあった。しかし情報を求め調べるうちに、自分と同じ治療を経験した人たちの声に救われたことに加え、自身の経験を元にがん患者同士の繋がりを作っている人、自身の予後が悪いと知りながら、情報を求める人がいる可能性を考えて体験を語った人、がん患者が誤った情報に惑わされず正しい情報を得られるように尽力する医療者、患者家族を支援する医療ソーシャルワーカー、社会保険労務士として患者の就労支援に当たっている人など、様々な立場から誠実にそれぞれのフィールドで尽くしている人たちがいることを知った。一口にがん患者といってもその部位やステージや治療内容、病気の捉え方、何を最もつらいと感じるかは一人ひとり違う。人によって異なるという点は、吃音も同じである。当事者の声には力があるというのも共通点だ。当然、医療の関わりのみに着目すれば全く別のものだが、関わる人たちの精神には、驚くほど、吃音教室で学んできたことに近いものが流れている。
4月以降、がんは私の仕事にも関係することとなり、患者の視点だけで考えることは難しくなった。患者や医療者の思いの全てを事業に反映できるわけではないことにも、複雑な気持ちがある。それでも、今この部署に配属されたことに、ある種の縁を感じる。
私はまだ、自分のがん経験の詳細を不特定多数の人に伝える心境には至っていない。それでも、今まで吃音の知識に留まらず、どもりながら生きる上での物事の捉え方や、より良い人間関係の作り方を学んできた自分が、がんの経験を通じて考えたことをどうしても書き残しておきたかった。その思いを今形にできて、ほっとしている。
【作者感想】
今書いておかなければきっと色あせてしまうと思い、この1年近くの出来事や感情、発見、そこから考えたことを、とにかく書き起こしました。『吃音で良かったこと』というテーマに完全には合致しないかもしれませんが、吃音だったからこそ考えることができたこと、それは結局私にとっての『吃音で良かったこと』なのだろうと思い、応募を決めました。
がん経験の詳細はあまりお話しできないかも…と書きながらも応募したのは、吃音との関係を皆さんと共有したい!と思った私のわがままです。吃音そのものを掘り下げた内容ではない中で賞をいただき、感謝申し上げます。
私は今後も経過観察は続きますが、もうすっかり、以前の制約のない生活に戻っています。この文章の内容に関わること、私が罹ったがん種以外のことは皆さんとお話しできると嬉しいです。これからも変わらず、よろしくお願いします。
2022年度受賞全作品ページ
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2022年度 優秀賞
運命のどもり
吉本(丹) 佳子(よしもと かこ)
どもりでよかったことを考えるとき、思いつくのは三つである。
一つ目はなんといっても大阪吃音教室に出会えたことだ。私と大阪吃音教室の関係を思うとき、思い出すのはドラマ『チャングムの誓い』の第一話のある台詞である。物語の初めの方で、ある男が予言を受ける場面がある。その予言というのは、正確には記憶していないが「お前には運命の女が三人いて、一人目にはもう会った。三人目の女には二人目の女に会わないと会えない」というものであった。この二人目の女はその男の妻になる女性、そして三人目はこの男と妻の娘、ドラマの主人公チャングム、である。この予言風に言えば、私が吃音でなければ、大阪吃音教室に出会うことはなかったのだ。
「どもりでなければよかった」とは、ずっと思っていたことだった。中学校で音読や発表でどもり笑われたとき、外国語の勉強をあきらめたとき、就職の面接で自分の名前が言えず、その後の受け答えもどもってうまくできなかったとき、就職して電話応対で相手の人に「何言っているのかわからない」と言われたときなど本当につらかった。「どもりじゃなければ、もっといい人生だったはずだ、どもりが治らないと幸せにはなれない」と思い込んでうつむいて生きていた間は、暗い人生だったと思う。
30歳のとき、知人の紹介で訪れた大阪吃音教室で私はどもっていても大丈夫と思えるようになった。またその年から参加したショートコースで一流の講師の方々に会い、さまざまな勉強をすることができた。鴻上尚史さんの演劇のワークショップでは声を出し、からだを動かして表現することの面白さを学んだ。デビット・K・レイノルズさんの回では、内観の「していただいたこと、して差し上げたこと、ご迷惑をかけたこと」を実際に書き出してみたことで、自分がいいときでも悪いときでも、いろいろな人や物が助けてくれていたことに気がつくことができた。この他にも、松元ヒロさんには、つらい体験もつきつめればユーモアになること、向谷地生良さんの当事者研究では、自分のどもりの苦労や行き詰まりを自分で観察者の視点から「研究」することのおもしろさ、弱さの情報公開からつながりが生まれること、国重浩一さんのナラティヴアプローチでは、「人が問題ではない、問題が問題である」こと、北野誠一さんには「困難な状況を経験しても跳ね返す力」のレジリエンスと「ともに生きる価値と力を高める」エンパワーメントを学ぶことができた。毎回何か気づきをもらい、その度生きることが少し楽になった。またショートコースに参加できず、機関紙や吃音臨床研究紙から、アドラー心理学の「自己肯定、他者信頼、他者貢献」、アサーションのさわやかな自己表現やIメッセージなどなど、学べたことをあげればきりがない。これらを実生活に使い、私はどもりがあっても、機嫌よく生きることができるようになった。また、どもりとは関係ない他の問題などに直面したときも、これら理論を適用して考え、何が問題点を整理することができ、自分の考えをうまく切り替えられたり、相手の攻撃をするっとかわすことができたりした。それから、竹内レッスンに参加したことで、まっすぐな声を出す気持ちのよさ、歌を歌う楽しさを実感することができた。またゆらしを体験したことで、からだのこわばりに気づくことができた。そしていらないからだの力を抜くためには息を吐けばいいことを教わった。どもりでなければ、大阪吃音教室に出会わなければ、私は田舎にずっといて、大阪や滋賀にわざわざ出かけていって、こういう経験をすることは人生の中で絶対なかったと思う
もう一つ付け加えると、大阪吃音教室のどもり仲間の中にいると、なんだかほっとすることができた。最初参加するまでは、どもり仲間なんて傷をなめ合うような関係で、かっこ悪いと思ったこともあったが、実際その中に入ってみると、最初から居心地のよい雰囲気で自分を受け入れてもらえるという安心感のある場であった。大阪吃音教室と出会えたことは、私の人生を豊かにしてくれたと思う。
二つ目は、どもりがあったから、私は人を傷つける人間にはならなかったということだ。私がどもりだしたのは、中学校に入ったくらいだった。どもっていないときの私はいい人間ではなかったと思う。ある程度要領はよかったので、少し努力すれば、そこそこいい成績をとることができていた。だから、何かができない人は努力が足りないからだと思っていた。小学校の3、4年生のとき同じクラスに、今思うと場面緘黙のAちゃんがいた。Aちゃんは行動も少しゆっくりだった。出席番号が近く背の高さも同じくらいだったから、教室の授業でも体育の授業でも、よくその子とペアになることが多かった。私は彼女が嫌いだった。「なんで普通の子と同じようにできないのだろう、こんな子と一緒に活動してもつまらない」と思っていた。先生はおそらく私を信頼してくれていて「Aちゃんのことよろしくね」とよく言われた。でも私は、先生やみんながいるところではAちゃんに優しく接したが、誰もいないところでは無視していた。一度クラスでAちゃんがいじめの標的になったことがあった。Aちゃんの肩や手があたった子が、「Aちゃん菌」と言いながら他の子に触りにいき、他の子は「Aちゃん菌きたなーい、うつさんといてー」と言いながら逃げた。またAちゃんの靴や教科書が隠されたこともあった。ある日Aちゃんが泣いて帰ったことがあったらしく、次の日先生がみんなを怒ったので、表面的にはいじめは収まった。そんなとき、私の制服の襟が変になっていたのだろう、Aちゃんがスッと直してくれて、にこっとしてくれたことがあった。それに私は「汚い!触らんといて!」と言ってしまった。彼女の一瞬泣きそうになった顔を今も覚えている。そうだ、私はひどい人間だった。
中学校になり、私は本格的にどもりだした。でもまだこのころは「大丈夫、またすぐもとにもどる」と思っていた。一学年七クラスの大きい学校で、彼女は特別支援学級に入り、交流も違ったので、Aちゃんと関わることはなくなった。
私はどもりが治らないまま、暗い青春時代を過ごした。努力してもどもりは治らなかったので、努力してもできないことはあるとわかった一方で、何事に関しても努力なんか無駄だという風に考えるようになっていた。行きたかった外国語大学をあきらめ、大学はそのときの成績でいけるところにいった。文系だったのでなんとか卒業はできた。就職活動は面接でどもってそのままうまく答えられず、たくさん落ちた。その後、いくつか仕事を変わり、今の学校校務員の仕事をするようになった。そこで、特別支援の子どもに関わる機会、そしてその子どもたちについて勉強をする機会があった。ここで初めて私はAちゃんが場面緘黙であったことを知った。そしてこれが吃音と同じように、自分でもどうしようもないことだったのだと知ったのだった。
実は自分がどもりはじめたとき、これはAちゃんにいろいろ意地悪をしてきたから彼女の呪いを今受けているのだと思っていた。どもりを人に笑われたときは、Aちゃんにした意地悪を思い出した。だから、高校から学校は違って会うことは全くなくなったが、ときどき彼女のことは思い出していた。また、自分はどもりという劣っている人間なんだ、こんな人間は偉そうなことをしてはいけないんだ、と思うようになっていた。もしどもりでなければ、私は傲慢で人を傷つけても平気な人になっていたと思う。大阪吃音教室に出会ってからは、どもりに対するきちんとした知識を得ることができ、今はどもりだから劣っているわけではないことがわかる。そして、アサーション、内観などいろいろ学んだことで、自分を必要以上に卑下せず、人を傷つけないコミュニケーションがある程度できるようになったと思う。
三つ目は文章を書くことが楽しくなったことだ。何度かことば文学賞で賞をいただき、読んでくれた方から「よかったよ」とか「おもしろかった」と感想をいただけたことで、少しだけ書くことに自信が持てるようになった。自分をさらけ出す恐さもあるし、なんでこんなこと書いているんだろうと思うときもあるが、もしかしたら同じような考え方、経験をしている人がいて、その人に変なのは自分だけじゃないと思ってもらえたらうれしい。
最近50歳をこえて思う。「どもりは私にとって運命だったのだ」と。
【作者感想】
「ことば文学賞」優秀賞ありがとうございます。最初「お題」を見たときは「今年は無理だ」と思ったのですが、まず「大阪吃音教室に出会えたのはよかったな」ということを思い、次に「もし私が美人でどもりじゃなかったら、きっと傲慢な人間だったな」と思ったことがあったのを思い出し、それらを軸にして書いてみました。「大阪吃音教室に出会えてよかったこと」を書くために引っ張り出したショートコースの資料の中の言葉や自分の走り書きのメモに、そのときの空気感や出会った人たちのことを思い出し、しばらくほんわかした気持ちに浸ることができました。
Aちゃんについて、今あるのは後悔です。中学を卒業以降Aちゃんには会っていません。Aちゃんの住んでいた家は市の再開発区域にあたり、なくなってしまいました。こうやって活字にしていただいたことで、もしかしたらAちゃんの目にいつか触れる機会があるかもしれないなんて、心のどこかで期待しています。
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2022年度 優秀賞
どもる不安がストーリー
嶺本 憲吾(みねもと けんご)
私のようにほとんどどもらないどもる人はたくさんいるだろう。大阪吃音教室に通っていると、たまに新しく来た人が「皆さん全然どもっていないですよね」という発言をすることがある。自分は吃音と認識している人から見ても、どもっていないと感じるらしい。例会に来てちょこんと座っていなければ、誰もどもる人とはわからないということだ。それは参加者がいろんな発言をしたあとでもそう感じるらしい。昔の私なら腹が立っただろう。今はああそうかと思うだけだ。ムキになって無理矢理どもることもしない。言い換えや間の取り方が上手になりすぎて、自分がどもる人であることを忘れてしまうこともよくあるからだ。でもそんな発言を聞いたとき、私は吃音でよかったと思うときがある。なぜそう思うのか不思議だった。それはどもろうがどもらまいがそれとは関係なく、どもる不安と共に生きてきた、自分に対する自負があるからだと最近は思うようになった。
吃音で悩んでいた頃、どもりたくないと悩んだ。今はもっとどもりたいなぁと思う。あの時の悩みはなんて贅沢な悩みだったのだろうか。まるでガラクタだったものが今になって光りだしていることに気付く。一番の思い出は本読みで詰まってしまって、完全に読めなくなったこと。あの時はどもりがばれた、恥ずかしいと思い泣いたと思っていたが、今考えるとそうじゃなかったのかなと思う。小学生の時代からどうにか工夫してごまかして本読みを乗り越えてきたのに、中学2年のここにきて吃音がバレるなんて、今までの努力が水の泡になったと思い泣いたんだと思う。漢字がわからないふりをする、どこを読んでいたのかわからないふりをする、咳をする、発音を変える、うまくごまかすことに必死だった。だから詰まらずに読めた時の安堵感や達成感はどもらない人の想像を遙かに超える。例えば、自分が本読みをする番になる時にチャイムが鳴り回避する。先生が本読みの順番を間違え、飛ばされて回避する。自習になる。国語の授業中、避難訓練が始まる。どもる子供にとっては神様が手を差し伸べてくれたような奇跡が溢れている。神様はどもりを私に与えたから、その分助けてくれると思っていた。だから心の中で素直に感謝した。
試練はまだまだ続く。日直当番の時の「きりーつ、れい!」、体育の時の番号点呼、職員室の前で先生を呼ぶとき、なにかの発表会、もう目が回りそうなほど次々とくる。でも自分の中で回避するよりも嬉しかったことは、たまに手を挙げて発表したこと。完全にやられっぱなしではなかった。どもりに対してやり返すではないが、子供なりに少しでも勇気を見せたかったのだと思う。どもったらどうしようという不安を抱えて、それでも重たい右手を挙げる。少々どもっても、たとえ間違っていても、あっけなく次の質問に流されても手を挙げた喜びや達成感はどもらない人の想像を遙かに超える。
2番目の思い出は応援団長をしたこと。推薦で無理やりさせられたため本番までどうやって回避しようかばかり考えていた。結局当日腹をくくって選手宣誓や応援合戦などやりきることができた。やりたくない、逃げたいという思いのまま渋々やったことも、今となってはやりきったという自信に変わっていった。
どもった時の思い出もどもらなかった時の思い出も、私にとっては必要なこと。今思うのは、普通の人のように擬態して生きてきたのではなく、どもる人に擬態して生きてきたのではないかということ。普通の人ができなかったとダメージを受けることも、どもりというクッション材でダメージは緩和されてきたから、ここまで生きてこれたのではないだろうか。
社会人になり大阪吃音教室に通いだしてからは、吃音のことを正しく学び、よりよい生き方に導く心理療法を数多く勉強した。中でもナラティブ・アプローチは大好きで特に「あなたが問題なのではない。問題が問題なのだ」、「人は物語を生きている」の文言とその考え方に大いに共感した。人生を包括的に捉え、鳥の目で俯瞰するその考えは、なにかを変えなきゃという大袈裟なものではない。だからどもる不安は消えなくてもいいし、どもる場面を回避できた喜びをもっていてもいい。子供の名前をこれなら確実にどもらないと考えた名前にするなど、悪あがきしてもいいのだ。妻に「タはいけるか?」と聞かれ「タ行はだめだ」と答える、「はるま」はどうだ、そっと口にだしてみる。私は首を横に振る。そんなことを繰り返して、決めた名前。はじめはおお言える言えるぞと、いくらでもこいと思っていても、何回目かで見事にどもってちょっと笑ったりすればいい。そんな私の子供が吃音になってもいいと思えることも、吃音になってよかったこと。理想を言えば、もう一度あの教室で本読みをしてみたい。今度は小細工をせず、人の目を気にせず、自分のペースで読み始めるだろう。私はそんな本読みのことを、いつか子供に話したいと思っている。
【作者感想】
優秀賞ありがとうございます。どもらないどもりの私は、子供の頃の数少ないどもった経験、その時感じた自分への恥と屈辱から抜け出せずにいたと思います。どもることへの不安と迷いを持ち続けたまま大人になり、これでいいと思いながらも、どもらない自分への後ろめたさがありました。だから他の方からの「どもらない発言」には敏感だったと思います。でもその時、心の中で小さく生まれた感情もありました。それはなんだろう、誇りに近いもののような気がして書き出してみると、この文章ができました。
子供の名前は「りょうご」です。呼ぶときは大丈夫ですが、名前を聞かれて答える時にどもるようになりました。どもる言葉に昇格したことで、とても愛しい名前になりました。
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2022年度 審査員特別賞
吃音と知らずに生きてきて
深堀 洋介(ふかぼり ようすけ)
私は幼い頃から自分が上手く話せないことは自覚していたし、「つまる」と表現することはしていたが、吃音、どもりという言葉を知らずに生きて来た。緊張しやすい性格だから話すのが苦手なのだと自分では思っていた。吃音のことを特段からかわれたり、いじめられたりした記憶はない。しかし一度だけ、中学の頃、仲も良く、よく遊んでいた異性の同級生に、「間が悪いなあ」と言われたことがある。その頃から私の口数は少なくなった。自分でもわかっていたことであるのだが、同級生に指摘をされて、やっぱりそうなのか、とその時は大変落ち込んだ。
学生時代のアルバイトは荷物の仕分けなど、話す場面の少なそうなところを選んだ。口数が少ない為、学生時代の各アルバイト先では真面目なバイトの子として可愛がってもらった。しかし、勤務後の「おつかれさまでした」や「お先に失礼します」が言えるか不安で、言える気がするまで更衣室から出られないこともよくあった。
宅配便の営業所でアルバイトをしていたときは、荷物の仕分けの担当として入ったにもかかわらず、急遽一件ひとりで配達に行くことになった。電話やインターホンが苦手な私は、インターホンを押したあと社名を名乗ることができず、ドアを開けてもらえなかった。荷物はそのまま営業所に持ち帰った。営業所に帰ってから、どのような報告をしたのかは覚えていない。お客さんから問い合わせがあったのか、戻った営業所は少しざわついていた。そんなことがあったにもかかわらず、数ヶ月後、正式に配達担当になったのだが、すぐに「宅急便の◯◯です」と社名の前にひと言付けることでスムーズに言えることを発見した。言えた! とうれしかった。電話でも使える。これでいける! それからは、荷物を届けるのを楽しみながら毎日インターホンからインターホンへ、日が暮れた後の大阪の街を台車や自転車で駆けまわった。
その少し前くらいから本を読むようになった。通学で大津から大阪までの片道約1時間、毎日2時間が楽しみだった。私の3つ上の兄はよく本を読む。ある時その兄に、「洋介は普段どんなことを考えているんや」と訊かれたとき、私は答えられなかった。何も考えていないのか、考えてはいるが表現できないのか、自分でもよくわからなかった。たぶん両方であっただろう。そんな私に兄は「考えるには言葉が必要やで」というようなことを教えてくれ、本を読むことを勧めてくれた。その兄は、中学の頃に不登校になり、それ以来、家にいる。その兄に読みたい作家のリストと予算を伝えておくと、大型古書店をまわって探して買って来てくれた。兄が古書店まわりをする日の朝、自転車に空気を入れるのが私の役目だった。時には、大津から山を越えて京都の三条まで行っていたそうだ。反対に、梅田の古書店街に兄の探している本があったときは私が買って帰ったこともある。そのようにして本を読むようになってから、少しずつ、頭の中で言葉を並べて考えられるようになり、人に伝えたいと思えることも少しずつ言葉にすることができるようになってきた。この頃から、ことばが少しずつ自分のなかに蓄えられはじめたのだと思う。私は話をするのが苦手なのだと思っていたが、そもそも話をするためのことばを持ち合わせず、口数も少なかった為に話すトレーニングが圧倒的に少なかったのだから、当然といえば当然だろう。
就職し、初めは新潟へ、3年後に埼玉へ異動になった。その埼玉で、生まれて初めて親友といえる友人ができた。当時私は24歳、彼は2まわり上の48歳。私は中学の頃から兄弟の影響でギターを本格的に始めた。それまでも、楽器や音楽を楽しむことは、我が家では当たり前のものだったが、その頃、好きなミュージシャンができて夢中になり、今でも大好きだ。地元の音楽好きの集まる喫茶店で意気投合し、住まいも近かったこともあり、暇さえあれば友人宅に遊びに行った。日の高い時間から、奥様の手料理とお酒をいただきながら、音楽の話で盛り上がることはもちろん、ふたりで寅さんの映画を観たり、友人の好きな西部劇を観たりして過ごし、酔いがまわるとギターを抱えて夜遅くまで一緒に歌を歌った。その友人は私のする話をよく聴いてくれる。出会った当時、私は平家物語を読んだり、能の「巴」を観たりして、木曾義仲に惹かれていた。義仲は私の地元大津で討たれ、墓がある。芭蕉も慕っていたという。今の埼玉県で生まれ、幼い頃一族内の争いから逃れて木曽の山奥で育った義仲の人生、そしてその最期を友人に語った。きっと、とてつもなくどもりながら、長い時間をかけて話しをしたのだと思うが、次に会った時に友人は、「この前してくれた話、面白かったなあ」と言ってくれ、夫人も笑顔で頷いていた。うれしかった。家族以外の他人に自分のする話を面白いと言ってもらった、そんなことは初めての経験だったのではないだろうか。その親友との親密な時間のなかで、どもることなどお構いなしに喋りまくったことが、結果的に話すトレーニングになって、今があるのだと思う。親友との出会いに感謝している。
歌を歌うことも大好きだ。歌を歌っている時はどもらない、そんなことは知らなかったが、ずっと歌ってきた。吃音を知るより数年前、そのことに気がついた。気がついてからは不思議でしょうがなかった。それと同時に、話すことには不自由を感じるけど、歌は自由に歌わせてくれるなんて、神様がいるとすれば、なんて憎いことをするものだろうと思ったことをよく覚えている。
思うように話すことができず、時には音さえも出すことができない不自由さと、30年ほどのあいだ自分なりに付き合って来た。それにどもり、吃音という名があることを知ったのは数年前だ。正面から自分の吃音と向き合い学ぶようになってからまだ1年にもならない。吃音は原因がよく分かっておらず、治るようなものでもないそうだ。不思議と、その事実を受け入れることには抵抗がなかった。そして、吃音は自然に変わるものだ、ということも直ぐに納得できた。自分のどもり方も随分と変わってきた。しかしそれは吃音を治そうとして変わったわけではない。緊張して固くなり喋れないのだと思っていたので、慣れればもう少し上手くやれるだろうとは思っていたり、ことばが出やすいような工夫をしたりはしてきたが、治る、治すという考えはなかった。昔と比べて今は、息ができないほど苦しいどもり方はしなくなったし、言いたいことを言わずに済ませてしまうことも随分少なくなった。それは、自分の中にことばを蓄えたり、人に伝えたいと思うような経験をたくさんしたり、話を聴いてくれる仲間と出会ったり、仕事の上で必要に迫られて話す場面が多くなったり、他にもいろいろなことが影響しているのだろうという実感がある
今、初めて吃音のことを学んでいる。吃音の歴史や基礎知識だけでなく、今まで縁遠かった分野のことも、吃音というテーマを通してなら面白く学ぶことができる。なにせ他人のことではなく自分のことなのだから、面白くないわけがない。自分が書店の精神医療や心理学などのコーナーに通うことになるとは、昔は思いもしなかった。こどもの頃は作文が大の苦手で、人に読まれないように隠しながら、ただ字数を稼ぐことしか考えていなかったが、今は、ことば文学賞に応募するための作文を四千字で足りるかどうか気にしながら書いているなんて驚きだ。こうして今、様々なことを学んだり、考えたり、人との出会いを喜んだり、新たなことに挑戦したりできているのは、自分に吃音があり、吃音と共に生きてきたからだろう。
もし自分が吃音でなかったら、どんな人生を送ってきて、この先どのように生きていくのだろうか。ものごころついた時からどもっている私には想像しにくい。これまで親や兄弟には、自分の好きなことを好きなようにやらせてもらい、おかげで仲間に恵まれ、妻とも出会うことができた。たくさんの人に助けられて幸せに暮らして来れたと思っているが、自分が吃音でよかったと言い切ることはむずかしい。しかし、どもる自分と向き合い生きていくこれからもきっと、良いこと、良い出会いががたくさんあるだろうという、確信に近い展望は持っている。これからは、自分は一人のどもる大人であるという明確な自覚と共に生きていく。私の人生には吃音というテーマがある。このテーマを楽しんで生きていきたい。
【作者感想】
色々なものや人との出会い、それらは吃音というキーワードで語らなかったとしても自分の生活を豊かにしてくれている大切なもので、それらがあったから今まで何とかバランスを崩さずに生きて来れたのだと改めて思います。テーマに沿っているかギリギリのところかなと思いましたが、募集告知の「募集テーマ以外の作品でも構いません」の文言に甘えて応募しました。十月には大阪で開かれた、「新・吃音ショートコース」での受賞三作品の発表の場に立ち会うことができて、自分も作品を書くことにチャレンジして文学賞に参加したからこそ感じられたこともあり、チャレンジした甲斐があったと満足に思っていました。思いがけず審査員特別賞を頂けて大変嬉しいです。ありがとうございます。一作に詰め込み過ぎました。一つ一つのことを丁寧に書けるように作文についても勉強して、またチャレンジしたいと思います。
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2022年度 審査員特別賞
「おたんこなす」と呼ばれた日
西田 逸夫(にしだ いつお)
「あほ!」「ばか!」「まぬけ!」
そんな罵声が、いきなり落ちてきた。ある大きな県の庁舎の一室、とある小さな課の協議スペースで、私の正面に陣取っていた課長が、殴り掛かるように私に向かって怒鳴った。その日協議していた案件はかなり面倒なもので、時間を掛けての押し問答が続いていた、そんなタイミングだった。
「おろかもの!」「おたんこなす!」
課長が叫んだ。
文字で見たことはあったが、「おたんこなす」と直接耳にするのは初めてだった。面罵され続けながら、私の頭は冷静になり、背筋が伸びてきた。罵声の内容は、余りにも的外れだった。その日が初対面ではあったが、それまでの交渉に費やした小一時間で、こちらが間抜けでも愚か者でもないことは十分伝わったはずだ。
後日知ったのだが、この課長には、課の事業関係者との協議の場で、時折こんな常識外れの態度を取る悪癖があった。そうと知らない私は、一旦は面くらったものの、大声で叫ばれ続けても痛くも痒くもなく、黙って課長を注視していた。課長の左右には、その課の幹部職員と事務担当者が座っていた。直前まで私と活発に話し合っていたのだが、課長のこの「発作」が始まってからは、うつむき加減に押し黙っている。課長たちの腰掛けるソファの向こうには、その課の机が並んでいて、職員たちは課長の罵声が聞こえないふりで仕事を続けている。
そんな協議スペースの、私から見て左のソファに、私の属する団体の代表理事が腰掛けていた。大柄な背を折り畳むように丸め、課長が罵声を上げる度にビクッと身体を縮めている。私は課長の面罵よりも、そんな代表の姿にショックを受けた。課長に攻撃されているのは私なのに、この人は何をビクついているのか。
実はこの日の協議は、我が団体の不祥事とその善後策が議題だった。だから担当者の私だけでなく代表理事が同席し、この日は二人で謝罪することから協議が始まった。担当事業についての話し合いは私が対応するので、代表には同席してもらえば充分ではあった。とは言えこんな突発事が発生したなら、代表が前に出るのが通常であろう。しかし、このときの代表は上に書いたような有り様で、相手の暴言に対して我が団体を守ろうとも部下を守ろうともせず、ただ自分の身をすくめていた。私は後にこの団体から離れたが、このときに代表を見限ったのだった。
この場面を思い出すと、我ながら突発事によく対応できたものだ。それまでの人生経験のあれこれが役立ったには違いなく、そのうちの幾分かは間違いなく、私に吃音があったお陰だ。
私は北海道で3年半暮らした。厳冬の冬を4回過ごした。そんな北海道体験で私が得たことのすべてを語るのは無理だが、「度胸が身についたこと」は挙げることができる。
北海道の東端、根釧原野と呼ばれる辺りで私が働いていたのは、3家族のほか何人かのスタッフで運営している酪農牧場で、数十頭の雌牛を飼っていた。酪農のことを知る方にはお分かりのように、おとなしい性質の乳牛の放牧場は頑丈には作られていないので、年に何回かは牛たちの脱走を許してしまう。「脱走したぞ!」と誰かが叫ぶと、牧場の全員が作業の手を止め、協力して群れの更なる逃走を防ぐ。おのおのが何個所かに散って逃走ルートを塞ぐ間に、ベテランたちが放牧場の破損個所を補修する。逆に言えば、補修が終わって群れを戻せるようになるまで、私含めた何人かは持ち場に別れて牛たちを遮る。おとなしいとは言え、角を持つ7、8百キロの巨体群が逃げようとするのを、両手を広げて遮り、時には大声を出して後退させる。そんなことを繰り返すうち、いやでも度胸がつくわけだ。
その牧場で働くことになったのは、私が吃音だったからだ。7年通った大学を中退して社会に出たものの、それまですっかり自分を甘やかしていた私には社会人は勤まらず、人とのコミュニケーションがまともにできずにいて、北海道のその牧場を紹介されたとき、「吃音の自分も、牛が相手なら意思疎通できるかも知れない」と考えたのだった。
課長の罵声はその後も続く。よくこんなにネタが尽きないものだ。そんな風に思ったとき、課長が言った。
「税金泥棒!」
流石に聞き捨てならない。
「税金泥棒にならないよう努めます」
間髪をいれず、そんなことばが出た。何の心の用意もなかったが、課長を見据えたまま、私の口から大きな声が出た。課長の左右の職員が、ハッと顔を上げた。隣接場所の職員たちにも、私の声は届いたようだった。変わらないのは、手を変え品を変えて罵声を繰り出し続ける課長と、その都度背中をビクつかせる代表理事の二人だけ。私は背筋を伸ばして平然と課長を見返し、課長の両側に座る職員はそんな私を見守っていた。
やがて、課長が吠えるのをやめた。持ちネタを使い果たしたのだ。僅かな中断もなく、私は協議を本題に戻した。向かい側の左右に座る職員たちも、即座に交渉に乗ってきた。黙り込んだ課長とうつ向く代表を放置したまま、その後の協議はサクサク進み、決めるべきことのすべてに結論を出して終了した。
このエピソードを後々何度も想起するのだが、こんなことを考えたこともある。このときの面罵に「このどもりが!」みたいなものが混じっていたら、私は平静でいられただろうか。
仮定の話でなので確言しかねるが、案外平然としていられた気がする。罵声が始まってから、私は冷静にその場を視ていたし、冷ややかに相手を軽蔑していた。途中の発言「税金泥棒にならないよう努めます」は、口を衝いて出た後に「自分はこういう人間なんだ」と確認した。このことで、「こういう場に座を占めて恥ずかしくない人間なのだ」と自覚した私は、自分を相手より高みに置いていた。
このときの課長は、持ちネタをひたすら繰り出す戦術を採った。その挙げ句、在庫処分の後は沈黙するしかなかった。けれど、私の吃音をあげつらうなど、少々戦術に工夫していたとしても、課長から視た戦局は好転していなかっただろう。
我が団体の謝罪から始まった協議だったが、課長の態度急変後は立場が入れ替わった。課長の「おたんこなす!」は、かくして空振りとなったのである。
【作者感想】
審査員特別賞を頂き、大変嬉しいです。この作品で取り上げた、とある県の県庁でのエピソードは、大阪吃音教室のある日の例会で何かの拍子に思い出し、話題にしました。そのときは、急な罵声を平然と受け流せたことと吃音体験との間に、さほどの関係があると思っていませんでした。その例会の後、県庁での場面を何度も反芻するうち、こうした度胸がついたのは明らかに牛飼いの経験を通してであり、北海道に渡って牛飼いになった最大の理由は吃音だったと思い至り、この作品をまとめました。
北海道で過ごした日々に私は、心身ともに大きな試練を幾つも経験しました。後々思い出すのもいやな日々になるだろうと、そのときは思っていました。しかしながら、その頃に経験し、身につけ、感じ、考えたことが、その後の人生で何かにつけて私を支えてくれています。「根釧原野」と綴ったあたりから、北海道でのことが次から次へと懐かしく思い出されて、ついつい長く書き込んでしまいました。書き上げてから、牧場のくだりは削りに削ったのですが、まだ長過ぎるかも知れません。
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