2020年度 最優秀賞
働くことができて
有馬 久未(ありま くみ)
まだ暑さが残る大学4年生の秋、私はサークルの仲間と朝までカラオケに行っていた。明け方一人暮らしの部屋に帰り、ベッドに潜り込む。――午前10時が採用試験の合格発表だったな。でもどうせ不合格だから私には関係ない。目覚まし時計もセットしないでおこう…。
そう逃げるように寝入った数時間後、母からの電話で目が覚めた。「発表、今日だったでしょ。どうだった?」と聞かれ、「見てない…どうせ落ちてるもん」と言いながら、私は涙声になる。結果が分かったら教えてねと言われて電話を切り、すぐに父から届いていたメールに気づく。開けると「おめでとう」から始まる長文メール。読み進めるうちに、文字がかすんでいく。以前、受験番号を父に聞かれ、伝えていたことを思い出した。私より先にネットで確認した父。私、本当に合格したんだ――
大学に入ってからというもの、私は就職のことを考えるだけで怖かった。面接だけで勝負するなんて、私には絶対できない。できるだけ先延ばししたい。それでも何か、就職に向かう活動をしなければ。このような「取り繕い」から、私はとりあえずしゃべらなくてもできる、公務員試験の勉強を始めた。もちろん、公務員試験にも面接があるのは知っていたが、時期はずっと後だった。大学3年生の冬頃からは、民間企業の合同説明会や面接対策、OB訪問の話をする友人たちを見て、漠然とした焦りはゆっくりと膨らんでいったものの、「公務員志望やから」と言えば、民間企業の就活をしていないことを不思議がられることはない。
こうして約1年、勉強にも苦戦しながら、いくつかの公務員採用の筆記試験を通過することができた。しかしそうなると、次はいよいよ憂鬱な面接が待っている。「吃音を言い訳にせず、本当に伝えたいことがあれば、話すことに内容があれば、どもっても人は聴いてくれる」ということを学んではいた。しかし、自己分析をしては空っぽの自分を思い知り、吃音があるのにありふれた自己PRしか出てこないことに焦りを感じた。それでも何とか情報を得て予備校の面接講座を受けたが、ここでも厳しい現実に直面する。「公務員試験も人物重視」「面接官に『一緒に仕事をしたい』と思わせないと。君にはそれを感じない」という講師の指摘に泣いたこともあった。
そして本番。ある集団面接では、他の学生の時には頷きながら聞いていた面接官が、私の順番がまわってきて、どもりながら話すと、分かりやすくメモを取り始めた。別の面接では、私のあまりのどもりように「こういう場では我々も緊張するんです。落ち着いて下さい」と呆れられ、惨めな思いをした。結局ここの一次面接は通過したものの、内定まではもらえなかった。
もう一つ、一次面接と集団討論はどもりながらも何とか乗り切った。しかし、最終面接が圧迫気味で、それまでの選考では必ず伝えていた「吃音があるからこそ、人より努力する精神力が身についた。この心構えは、仕事においても大事にしていきたい」という言葉も、とても言えるような雰囲気ではない。完全に落ちたと思った。合格発表までの間、最終面接の場面が夢に出てくる。「あの時こんなふうに受け答えしておけば」という後悔の波が押し寄せる。それでも、別の試験の準備をする気力は湧かない。
――大学を卒業したら、私はあまり話さなくても良いアルバイトをしながら、試験勉強を続けるのかな…また取り繕うように。そんな思いがぐるぐると頭の中をまわっていた。
このようないきさつがあったから、今の役所に採用してもらえたことを、本当に幸運に思っている。
入庁当時、外部からの電話で「何を言っているか分からない。他の人に代わって」と言われたこと。私が電話でどもるのを、回線がおかしいと思ったと電話の向こうで笑っている職員の声が聞こえてきたこと。今となれば懐かしいが、そう思えるのは、つらい出来事よりも、私が話す内容に耳を傾け、見守りつつ、私の働きを肯定してくれた上司や先輩たちの存在が大きかったからだ。
これまで、税、企業支援、許認可業務、観光施策、議会対応、庁内調整、条例審査、医療行政など、様々な業務に携った。私は働くのがとても怖かった。それでも就職させてもらった身、やらないという選択肢はなかった。崖っぷちにいる気持ちで、色々なことを経験した。電話対応、会議等での自己紹介や説明。意見が折り合わない内容での交渉ごと、100人以上を前にした職員研修や外部の人を対象にした説明会、質疑への対応。もう無理だと追い込まれた時、肩の荷を一つ降ろす気持ちで、自分の吃音のことを説明するようにもなった。そして仕事を続けるうちに、社会の仕組みや課題を知り、それに対して取り組むこととなる。
うまくいかなかったことは多くあり、苦い気持ちはいとも簡単に蘇る。しかし一方で、「分かりやすい」「丁寧」などと仕事を認めてもらったり、「親切にありがとう」と外部の人に言ってもらった場面も確かにある。その記憶が、今の自分を支えているように思うし、組織内外の人との関係も含め、経験は財産になっている。仕事をしていなければ出会うことのなかった、様々な分野の人たち。知らないことを知るというのは、生きる上での醍醐味である。私は能動的な人間ではないので、どの仕事もやらざるを得ない環境があったからこそ向き合うことできたのだと、感謝の気持ちがある。
私は十代の頃に吃音親子サマーキャンプに参加させてもらい、「どもりながら豊かに生きる」という価値観に、幸運にも早くから触れることができた。私が折れそうでも折れなかったのは、間違いなくこのおかげである。しかし正直に言えば、私はまだまだ「豊かに生きる」ことを実践しきれておらず、仕事でも不便を感じることが多い。一方で、仕事がうまくいかない時、上司から注意を受ける時、その原因のほとんどは吃音以外のことにある。仕事で話すことは避けられないが、話すことだけで完結する仕事も少ない。最近は吃音以前の部分で、自分の能力不足を痛感することが多い。膨大な情報をどう取捨選択し、優先順位をつけ、関係者と調整し、より多くの人にとって効果が出るように事業を進めるか。異動して分野が変われば、一気に分からなくなることもある。勉強することは尽きない。
先日、オンライン説明会で話すことがあった。200人以上が聴いている中で説明することの不安は言うまでもないが、他の業務もある中で、前日は構成や内容の確認に深夜まで取り組んだ。当日、本番では、時間が押していた焦りと話すことの緊張で、私は冒頭、早口になった。全員が見ることのできるオンラインでのチャット機能で、参加者からの「もう少しゆっくり話してほしい」という書き込みが相次ぐ。話し方について公の場で指摘されるなんて、昔の私なら耐えられなかっただろう。それでも必要な情報を参加者に届ける義務が私にはあるし、どもるなと言われたわけではない。そこからは、時間を気にしながらも、ゆっくり説明することを心がけた。
これは「苦手な仕事をよくがんばった、お疲れさま!(終わり)」という話ではなく、日常の仕事でのひとコマに過ぎない。職場に戻れば他の仕事が山積みであり、何時に帰れるか分からない日もある。これが現実である。自分の吃音のことは気になるが、そのことにかかりっきりになることはない。
どもってもどもらなくても、仕事はしんどくて、時に楽しいものなのだろう。途方に暮れることがあっても、翌日はやってくるし、時は流れ、動いていくのだろう。そんな中で、多くの人にはできるが、自分にはできないこと。その逆のこと。何に対して重点的に努力するか、またはできないことを認めて、人にフォローを依頼するのか。その試行錯誤の繰り返しである。思い悩むことがあっても、私には、冒頭の忘れられない思いがある。これまでも、なんとか続けてきたのだ。とりあえず、明日、出勤してみようと思う。
【作者感想】
大阪吃音教室機関紙『新生』の2020年10月号に掲載いただいた文章「私の歩み」を全体的に見直して、後日談とともに書き上げました。自分でも重苦しい内容だなと思いましたが、できるだけ正直な気持ちを書こうと思い仕上げたので、受賞をとても嬉しく思います。
就職への不安や仕事の悩みなどを友達や同期と話すことはできても、吃音に起因する部分は共有できないという、うっすらとした孤独。一方で、一生懸命取り組めば、必ず誰かが見てくれているという発見。就職に向けた準備から、実際に働き始めて今に至るまでの、こうしたいくつもの出来事や心情の断片を今回まとめられたことは、自分にとっても大事な経験となりました。
また、大阪吃音教室例会での文学賞発表では、この文章に対する感想とあわせて、皆さんそれぞれの就職や就労に関する経験も聴かせていただくことができ、とても豊かな時間を味わうことができました。ありがとうございました。
2020年度受賞全作品ページ
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2020年度 優秀賞
就職活動で得られたもの
斎 洋之(さい ひろし)
私の就職活動は大学在学中には行っていない。研究に興味を持ち、大学院に進学したからである。これには別の理由があり、大学在学中はどもりがひどく、就職活動をすることに不安があったので、就職活動を先送りすることであった。加えて、当時の大学院生の就職は教授のコネでできるということがあった。また、どもっていても影響が少なく、仕事で勝負できる研究職に就こうという考えもあった。
大学院2年になり、就職活動が始まった。研究室の教授より、希望の会社があるかという打診があった。自分としては、場所も会社も特にこだわりはなかったが、とりあえず関東に研究所のあるE社の名前を出した。教授とコネのある会社ではなかったが、面接までの段取りをしてくれた。面接についてはあまり記憶がない。どもりであることを問題にされたということも感じなかった。最初なのでダメでも構わないとの意識があったのだろうか。当然といえば当然であるが、不採用であった。どもりのこともあり、まじめに取り組まないといけないと感じた。また、私の就職については、自分であれこれ活動するのは難しく、教授のところに来る案件でないとうまくいかないのではないかと感じ、教授のコネが重要であると認識したのであった。
そうしていると、教授より大阪のK社から是非来てほしいと依頼があるのでどうかという打診があった。この案件は、数年前K社から留学していた人を介しての求人で、教授の研究室から是非研究員が欲しいと懇願されたとのことであった。東北出身で東京の大学に通う私にとって、大阪は少し遠い場所であるが、就職ができればいいと思い、面接を受けることにした。どもりのことについては、教授にあらかじめ伝えてもらい、それでも構わないとの返事をもらっていた。このような状況であり、是非にと言っていることから、間違いなく採用されるものだと信じていた。K社の採用面接は、大学院での研究内容を面接官数人の前で発表することであった。この日の採用面接は私一人だけが対象なので、形式だけのものであると思っていた。ところが途中まで発表したところで、面接官から「あなたのようにコミュニケーションの取れない方は、この会社には必要ありません」と言われた。確かに当時の私は、どもりの症状がひどいために、話すのに時間がかかり、聞いている方にはとてもわかりにくかったと思う。K社の面接官にとっては、私のどもりの症状が予想以上にひどいものと感じたのであろう。このような社員がいると、会社としてうまく仕事が進められないと感じたのであろう。私の仕事に関する能力よりも、コミュニケーション能力のほうがK社にとっては重要なことであったのである。このような対応を受けることは、まったく予想していなかったことなので、どうしていいかわからなくなった。結局、発表は途中で終わりにされ、そのまま面接は終了となり、結果は後日連絡するということで帰京した。帰りの新幹線の中では、どもりでは就職できないとか、このまま就職できなかったらどうしようとか、悪いことばかりをずっと考えていた。研究所での仕事は、話すことよりも研究能力の方が大事だと思ってきたが、完全に覆されてショックだった。次の日、教授のところに行くと、K社から不採用の連絡があったようで、教授からは慰めの言葉をかけてもらい、「また他の会社を紹介するから」と言ってもらったが、就職に対する不安はとても大きくなった。
その後半月ぐらい経ってから、教授の同窓の方が役員を務めるT社から求人の話が来た。なぜかこの案件も、大阪の研究所でもいいかということであったが、場所がどこであっても、入社することができればいいと思い、お願いすることにした。今回も、どもりであることは伝えてもらった。返事をしてから数日後、T社の役員の方から大学の研究室に私宛の電話があり、「採用することに決まりました」と言われた。まだ面接もしていない段階で採用すると言われたので、驚いたとともに戸惑いを感じた。教授の推薦で十分であるとのことであったが、これまでの経緯を考えると、単純に採用を喜んではいられないと思った。私はどもりでコミュニケーションに問題があるため、入社してから問題が生じることは嫌だと思い、何とか自分のことをわかってもらった上で採用してもらう必要があるのではないかと考えた。そこで、自分の方から面接に出向くことにした。T社は大阪の他に東京にも研究所があり、教授の同窓の役員はそこの所長をしていた。そこで、私のどもりがどの程度であるかをわかってもらうために、研究所見学という名目で東京の研究所を訪問することを認めてもらった。どもりの程度によっては、採用を取り消されるかもしれないが、それでも納得して採用してもらった方がいいと考えた結果であった。役員の方との面談では、どもりでも構わないこと、研究所での役割を果たしてくれればいいことを説明された。もちろん、面接や研究発表ではなく、単なる面談であったので、どもりで立ち往生することはなかった。面談の後、担当の方が研究所の中を案内してくれた。歓迎されている感じがして、ホッとしたことを覚えている。研究所見学という名目で東京の研究所を訪問し、役員の方と面談することで、ようやく採用を安心して受け入れることができた。この面談を通じて、無事T社に入社することになり、これで私の就職活動は終了することになった。
K社とT社を比べてみると、採用する側の考え方が違うことがはっきりする。何を求めて採用するかの問題である。前者は研究よりどもりであり、後者はどもりより研究である。実際、前者の不採用はどもりだけが原因かどうかはわからないが、コミュニケーション能力が仕事の能力より優先するという事であった。しかし後者では、どもりは特に関係なく、しっかり研究の仕事ができればいいとされ採用となった。このように同じどもりでも、採用・不採用どちらでもあり得るのであり、それは会社の都合である。また、世の中にはいろいろな人がいて、人によって対応がいろいろであることを認識することができた。そして、どもりでも何とか就職して、生きていけることを感じたのである。
このように、どもりでも構わないと入社することができた会社ではあったが、入社してからは、どもりで苦労することは数多くあった。研究発表や勉強会では、どもることで時間がかかり、途中でも止めさせられたりしたこともあった。一方、本来の仕事である研究に関しては、とにかく一生懸命にやることで、どもりでのマイナス分を挽回できるように頑張った。入社するまでのことと、入社してからのことは、まったく別のことであることを認識させられた。
後日談であるが、私をコミュニケーション不足で不採用にしたK社は、消滅して今は存在していない。K社を不採用になったことは、結果としてはよかったことであった。
【作者感想】
大阪吃音教室機関紙『新生』の特集“「吃音と就労・就職」を考える”に、執筆を依頼されました。多くの方が面接を何度も繰り返して苦労していると聞いていましたが、私の場合面接の経験は少ないものでした。しかしながら、少ない中でも両極端の経験をしているので、その経験を書いてみようと思いました。その時の原稿を詳しく書き直した文章が、今回の受賞となりました。
「あなたのようにコミュニケーションの取れない方は、この会社には必要ありません」というフレーズは、今でも忘れることができません。でも、このことがあったので、以降の就職活動は吃音と本当に向き合ったと思います。
振り返って考えると、吃音が就職に影響することは否定しませんが、あくまでも採用する会社の考え方次第だと思います。したがって、不採用は吃音だけが原因ではないと思います。その点を考えて努力することが必要だと思います。そうすれば、私のように吃音はいい方向に導いてくれるかもしれません。
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2020年度 優秀賞
事件は会議室で
西田 逸夫(にしだ いつお)
1998年冬に公開された映画、『踊る大捜査線 THE MOVIE』を映画館で観たのは、余程そのとき暇だったからだろう。私は邦画ファンではないし、流行りの映画を追う趣味もない。急に何時間かを潰す必要に迫られ、たまたま近くに映画館があって、掛かっている中で一番マシなのが『踊る大捜査線』だったとか何とか、その程度の動機だっただろう。
とは言うものの、観るからにはそれなりに楽しんだ。織田裕二が叫ぶ有名なセリフ、「事件は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きてるんだ!」はもちろん、そこに至る物語の流れや幾つかの場面を覚えているのは、十分に楽しめたからだろう。
さて私は、吃音とともに日常を送っている。今はもう昔のように悩まされているわけではないが、吃音は生活のあらゆる場面に顔を出すので、ほぼ切れ間なく意識している。仕事をこなす上でも、日常生活を送る上でも、何かの課題に直面すると、取り急ぎの対応に没頭しつつ、頭の片隅では目前の課題と吃音現象の類似点、相違点を俯瞰している。目に入る森羅万象が、吃音とのアナロジーの対象となる。
さて、吃音について世間の人がしている大きな誤解に、「どもる人が困るのは、話すとき」というものがある。「何か話そうとしてどもるから、それで困るのでしょ」というわけだ。話すときに吃音に困るのは確かだが、話していないときも吃音を意識し続けるのが、どもる人である。「次に話すときにどもるかも」とか「吃音がばれたらどうしよう」とか、どもる人それぞれで自身に語り掛ける内容は違えど、話し始める前にも吃音を意識しているのが、どもる人である。
そんな、どもる人によくある習性の一つに、「言い換え」がある。傍目に良く分かるどもり方の人も、ほとんど周囲に気づかれないようなどもり方の人も、ことばの「言い換え」をよくする点で共通している。何かを話そうとするとき、少しでも言いやすいよう、どもりにくいように、口にすることばを言い換える。どもる人は、「吃音を意識し続ける人」であるだけではなく、「ことばを言い換え続けている人」でもある。
話が細かくなって恐縮だが、この、「言い換え続けている人」に、2つのタイプがある。話す前にあらかじめ、頭の中で言い換えることばを用意するタイプと、取り敢えず話し始めようとして、どもりそうになるや瞬時に言い換えるタイプだ。大阪吃音教室で何年か前、「ことばを言い換えるときにどうしているか」が話題になったことがある。私のように「あらかじめことばを用意する人」が約4割、「事前準備なしの人」が残り6割だった。
前者のタイプは、何か話したいことばが浮かぶと、脳をフル回転させて言い換え可能なことば候補をチェックし、一番どもりにくそうなことばを選んで舌に乗せる。後者のタイプは、ことばが引っ掛かりそうになると、瞬時に代替することばに切り替えて発声する。いずれも一種の綱渡り、ことばの芸術だ。
ともあれ、どもる人のうち4割くらいは、「頭の中でのことばの検索」が習性になっている。イギリス人作家で映画『クラウド・アトラス』の原作を書いたデイヴィッド・ミッチェルさんは、「吃音のお陰で豊富な語彙を持つことができた」と書いている。おそらく4割のグループに属する人なのだろう。
このグループメンバーの頭には、「会議室」のようなものが常設されている。何かを話す機会が生じるや、即時に召集される会議で、さまざまな検討が行われる。
例えば私が、喫茶店に入ったとしよう。席について目に入ったメニューに「マイルドブレンド」と書いてあると、この店では「マイルド」「ブレンド」「ホット」のどれかを言えば、同じものが出て来ると判断できる。このうちどのことばが言いやすいかをチェックして選ぶのが、会議における主要議題だ。普段はすんなり言えることばでも、次の一瞬には喉に引っ掛かるかも知れないので、油断なくチェックする。
こうした「純粋な」ことばの言い換えのほか、会議では他の選択肢も協議される。まずは「コーヒー」と言って、店員に「ホットですか」と問われて首を縦に振る、という提案が出る。無言でメニューを指させば済むという意見も出れば、ちゃんと口で注文すべきだという反論が出る。非常手段として、店員に身振りでトイレが近いと伝えて注文を先延ばしにしようぜ、なんて提案まで出たりする。こうしてコーヒー1杯を注文するだけでも、頭の中の会議室では大騒ぎが起こる。
映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』で、人質を取っての立て籠もり事件の担当となり、現場で奮闘する主人公、湾岸署の青島刑事は、警察署内の安全な会議室から下される、無茶な指示の連続にブチ切れ、思わず叫ぶ。
「事件は会議室で起きてるんじゃない! 現場で起きてるんだ!」
その後のドタバタがあって、映画は一気に終盤へ。大音量で流れる主題歌。余韻を残し、館内の明かりが再び点灯する。現実に引き戻された私は、満足して足早に、次の目的地に向かっただろう。
この映画はその後も何度か、折に触れて反芻した。流行る映画はそれなりによくできているものだ。私は幾つかの場面を反芻しては、我が身に引き寄せて苦笑したり、改めて何かに気づいたりした。
時は移ろい2016年秋、大阪大学豊中キャンパスを会場に、「第13回当事者研究全国交流集会」が行われた。この大会の本番、交流集会でのこともあれこれ記憶に残っているが、ここで書くのはその後に学生食堂で行われた懇親会の一場面だ。
交流集会に一緒に参加していた東野さん、坂本さんと私は、医学書院の「ケアをひらく」シリーズなどで有名な編集者、白石正明(しらいし まさあき)さんを懇親会場に見つけ、連れ立って声を掛けた。後日、この白石さんもどもる人だと分かるのだが、私はそうとは知らず、自己紹介の一環として吃音について説明する必要があると考えた。手短に知的で印象的に、吃音現象を説明したいと思った。
大きなイベントに参加した後の解放された気分と、会場で口にしたアルコールのお陰で、私の頭は何時になく速く回っていた。自分でも意外なことに、織田裕二のセリフが脳裏に蘇った。白石さんへの声掛けと大阪吃音教室のメンバーであること、以前から存じ上げていたことなど、型通りの挨拶をふたりに任せ、セリフをまとめる時間を稼いだ私は、ゆっくりと口を開き、吃音について語った。
「吃音って、うまくしゃべれないことだと世間で思われています。でも、しゃべる前の状態が問題なんです。しゃべる前、頭の中の会議室で、吃音の事件は起きているんです」
白石さんの反応は、極めて薄かった。しかしながら、私の落胆は小さかった。セリフが滑った残念さより、吃音現象の新しい説明を見つけた高揚感の方が大きかった。
「(吃音の)事件は現場で起きてるんじゃない! (しゃべる前の頭の中の)会議室で起きてるんだ!」
【作者感想】
「ことば文学賞」優秀賞を有難うございます。
この文章の構想はだいぶ前に浮かび、うまくまとめる自信のないまま温めていたものです。この年は作品募集開始から締切りまでの期間が大幅に延び、自分で「大ネタ」と思っていた題材の文章化に挑戦しました。貴重なチャンスを活かすことができ、受賞がとても嬉しいです。
作品に書いたように、どもる人は「話すときにどもるから困っている」との誤解を受けています。無理のない誤解ですし、説明の難しいことでもあります。「吃音の事件は頭の中の会議室で起こっている」というのは、かなりうまい説明ではないかと自負しています。
この文章の大筋を割合すらすらと書き上げた後、「頭の中の会議室」の描写に苦心しました。自分では余りに当たり前のことなので、草稿ではさらりと触れただけでした。読み直して、吃音を知らない読み手に伝わりそうにないと思って書き直すと、今度は全体のバランスを崩すほどの長文になりました。こんな風にして、この部分の書き直しに丸3ヶ月掛かり、何とか着地点を見つけたのは締切りの一週間前でした。
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2020年度 審査員特別賞
ころなはずじゃなかったのに…
椿谷 昌史(つばきたに まさふみ)
ついにそのチャンスがやってきた・・・
僕はスマートフォンでラジオを聴くのが趣味で、福岡の地方局の番組がお気に入りだ。
その放送局を一度でいいから見てみたい。耳にしてきた光景を実際に、この目で見てみたい。
パーソナリティーが番組前に買いに行っているコンビニで同じコーヒーを飲んでみたい。
ラジオを聴きながら、ずっとそんな事を考えていた。
そして2月のある日、営業から見積もりの依頼がきた。九州でのパソコン入替。
場所を調べると鳥栖市と長崎市だった。
前乗り前泊プランを提案し、福岡で泊まれるこの商談が成功することを祈った。
そして3月に入り、世の中は徐々に新型コロナウィルスに支配されていった。
感染者が増えだし、マスクを着用することが暗黙の義務になっていった。
まだコロナを身近に感じていなかったこの頃、いつもより快適に過ごしていた。
マスクのおかげで口元を誰にも見られない。
マスクの下で口をもごもごさせても、『マスクが邪魔で話しにくいんですよ』
と言いたげに振る舞うと妙に説得力がある。
言葉が出なくても、『話しているけど、マスクのせいで聞こえないのかな?』
と察してくれているようで、これまで気になっていた間も気にならない。
おしゃべりを控えめにというのも、口数の少ない僕にはちょうど良かった。
このコロナの状況も悪くないなあ、ずっとこれでもいいなあと不謹慎かもしれないが快適に思っていた。
月が変わると、状況は一変した。4月7日に大阪に緊急事態宣言が出た。
人との接触を減らすために出来るだけ出勤しないようにと週の半分は在宅勤務になった。
自宅での電話対応がメインになった。
しかし、学校が休校で家に居る子供達に電話で話をするところを聞かれるのが何よりも嫌だった。
家から出ていくことも出来ない。いつもと違って逃げ場がない。
電話をかける方が苦手な僕は、極力自分から電話をかける機会を無くそうとトイレにまで携帯を握りしめて入った。
かかってきた電話で全て解決させ、こちらから折り返しの電話をかけなくて済むように頭をフル回転させ、細心の注意をはらって対応した。
いつ電話がかかってくるかという緊張感とその電話で解決出来なければ、こちらからかけなおさないといけない恐怖心。
安心出来るはずの家の中なのに就業時間内は常に神経痛になっていた。
『STAY HOME』に苦しめられるとは。
「こんなはずじゃなかったのに…」
在宅にも慣れてきた頃、九州出張の案件が決まったと聞いた。
実際に行くのはコロナが落ち着いてからだと思っていたが、二週間後を指定された。
作業予定日の数日前についに全国に緊急事態宣言が出た。
この状況でも行かなければならないのか?県を越えての移動がどんな理由でも悪としか受け取られないこの状況で。
ひょっとして客先もコロナ対応に必死で作業の事を忘れてるのではないだろうか?
そうだ。感染者の多い大阪からの訪問を歓迎していないはずだ。
確信した僕は直接、客先の部長に連絡するしかないと思った。
初めて連絡するお客さんなので、もちろん吃音の事も理解してくれていない。
電話はかけたくなかったが、躊躇している時間もないと決断した。
どもりながらも名乗ると受付の方は「〇〇(部長)は在宅なので、確認して折り返します」と言った。
そして、すぐにかかってきた電話の声は受付の方だった。「予定通りでお願いします」と耳を疑う内容だった。
何より、在宅で家の中で安全に過ごしている人に伝言で言われた事が納得出来なかった。
せめて直接「こんな時期に申し訳ないけど…」と言って欲しかった。
周囲にも「作業は延期になるはず」と言っていた僕は、会社が止めてくれるはずだと勝手に期待した。しかし、出張申請書は止まることなく検印されて僕の手元に帰ってきた。
「こんなはずじゃなかったのに…」
近くに住んでいる高齢の両親からも反対されたが、サラリーマンの僕は指示に従うしかなかった。
福岡の感染者数が連日高い数値を出していた時期だったので気が気ではなかった。
もはや放送局を見に行く気もなく、福岡を通過するだけでも恐怖を感じていた。
出張に出かけると、新幹線は一つの車両に乗客3人だけ、ホテルでも他の客と出会わない、食事をするにも開いているお店を探すのに一苦労と異常な出張になった。
消毒・マスクと感染に細心の注意を払い、パソコンの入替も出直しの無いようにあらゆる環境を想定して準備していた。作業も緊張感の漂う中での作業だった。
二日目の長崎での作業も無事に終わった。本当に良かったと一息つき、心配してくれた両親にも償いのお土産を買って機嫌をとろうと思った。そして帰りの電車に乗る前に、ふと手に持っているものを見て、はっと気づいた。
『長崎ちゃんぽん』と大きく書かれた紙袋。
しまった。お土産の袋の事まで想定していなかった。これでは非常事態宣言の中、遠出をしている常識のないサラリーマンとしか見られない。
周りの人の視線を集め、すれ違う人々が一斉に振り返らないだろうか。
途中で街頭インタビュー等につかまったらどうしよう。いくら「仕事で仕方ない出張なんです」と答えたところで長崎ちゃんぽんのロゴが説得力を微塵もなく奪ってしまう。
せっかく買ったお土産を捨てて手ぶらで帰るか。
腹をくくって、長崎ちゃんぽんと共に強行突破するか。
出張の一番最後に究極の二択を迫られることになろうとは。
『ころなはずじゃなかったのに…』
【作者感想】
審査員特別賞ありがとうございます。賞の名前を聞いた時に「僕かな?」と思ってました(笑)。ある日の出勤時にポツリと呟いたダジャレ「ころなはずじゃなかったのに…」で文章を作りたいなと思い、試行錯誤を楽しみました。今までは内容が完成してから「タイトル」を考える作り方だったので、全く逆のアプローチは難しかったですが、コロナと特殊な出張のおかげでいい三段オチが出来たかなと思います。
コロナの環境下では、今まで自分なりの会話のスタイルを模索して作ってきた吃音者にとっては全てを崩された晴天の霹靂だったと思います。マスク越しの会話はメリットもデメリットも両方感じました。でも新しい環境でも自分のやりやすい方法を自然に考えている自分を逞しくなったなと思います。真面目に固く考えずに楽しむ。どもることへの囚われから解放された自分に対する『いいあきらめ』から楽になれました。
言葉はすらすら話せなくても、言葉を嫌いにならずに言葉遊びを考えて微笑んでいる自分であり続けたいなと思います。
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