2016年度 最優秀賞
言葉を借りる
鈴木 真司
私は言葉を借りて話している。
言葉は、私で作ったものではなく、誰かが作ったもの。
だから、私は言葉を借りて話している。
ところが、
言葉を貸してくれる人は、たまにいじわるだ。
言いたい場面で、言いたい言葉を貸してくれない。
今、その言葉が欲しい、というときに限って
言葉を貸してくれない。
人に会ったとき
「おはよう」を貸してくれない。
人から親切にされたとき
「ありがとう」を貸してくれない。
人を労いたいとき
「おつかれさま」を貸してくれない。
私は言葉を作れないし、
貸してくれるまでの時間を止められない。
だから、私は決めた。
急がないことにした。
その場面で、その言葉を、借りなくても良い。
少し時間をかけても良い。
違う言葉を借りても良い。
言い淀んでも良い。
何なら、言葉でなくても良い。
伝われば良いのだから。
表現すれば良いのだから。
【作者感想】
最優秀賞を頂き、ありがとうございます。まさか私が賞を頂けるとは思ってもみなかったので、受賞に関しては嬉しさよりも驚きの方が大きいです。
この詩はタイトルから書き始めました。以前「言葉を借りる」という言い回しが妙に耳に残り、「言葉」が「借りるもの」であるなら、私たちがどもる状態というのは、まるで言葉を貸してくれる何者かに「いじわる」されているみたいだと感じ、詩にしました。
また、言葉の貸し借りのお話なので、『吃音』や『どもる』といった言葉を使わずに作ったのがこだわりの一つです。
吃音のことを文章にし始めたのは大阪吃音教室に来てからのことです。文章にすることで自分の吃音を冷静に捉え、気持ちに余裕を持って向き合うことが出来るようになったと実感します。これからも、このような機会には積極的に参加・応募し、そのたび吃音と向き合うことで自分と吃音との良い関係を築いていきたいと思います。
2016年度受賞全作品ページ
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2016年度 優秀賞
もう一人のどもり
東野 晃之
大学を卒業して就職して1年。会社の仕事にようやく慣れてきたが、電話応対には苦労していたし、特に電話の取り次ぎが嫌だった。受話器をマイクに切り替え、社内アナウンスをしなければならない。社内に自分の声が響き渡るので社員の皆が聞いている。どもったらどもりが知れ渡ると思うと、私はみっともなく、恥ずかしくて耐えられなかった。マイクでの取り次ぎのことを思うと、電話を取ることに余計に緊張感が増した。営業の電話はひっきりなしにかかってくるので、逃げるわけにいかず、取ったり、掛けたりしているうちに少しずつ慣れてきたが、このマイクでの取り次ぎの呼び出しはできるものなら避けたかった。
ある日、新人社員が社内で呼び出しのアナウンスをしている。そのアナウンスの声が連発でどもっていた。少しあわてて早口のようにも聞こえるが、私の耳には明らかにどもっていた。入社したばかりの彼は、その後もたびたびどもりながら呼び出しのアナウンスをしたが、常にどもっていた。私は、社内に響く、彼のどもる声を聞くのが嫌だった。商品倉庫やデスクで、彼のアナウンスが流れる度に、ある者は顔をしかめ、またそばにいる者同士が可笑しがっていた。私は、彼がどもるたびに周囲の失笑の的になっていることが、自分のことのように辛かった。
しかし、同時に、どもりながらも逃げずに電話の呼び出しをする姿がうらやましく思えた。どもりを隠し、人に知られないように振る舞っている自分が、だんだん恥ずかしく感じられるようになった。私は、彼に対してある種の劣等感を覚えた。どもりながら呼び出しのアナウンスをする彼のように、私はどもりをオープンにできなかったからだ。
なぜ、私はこのようにどもった時の周りの反応を異常に意識するようになったのだろうか。どもりをみっともなく恥ずかしいものだと否定的にとらえるようになったのは、小学校低学年の頃、近所の遊び仲間にどもる子どもがいたからだ。私より年上の彼は私とよく遊んでくれたが、話すたびにどもる言葉が可笑しく、陰では友達とどもる真似をしておどけていた。家に帰っても、親の前で面白がって、その子のことを話し、どもる真似をしたら、「どもりがうつるからやめなさい」としかられた。子ども心に、どもりは悪いものだとの意識が芽生えた。数年後、中学生になって、どもりをからかっていた自分がどもるようになった。大きなショックだった。「どもりはカッコ悪く、人にからかわれ、うつったらダメなもの、だからどもりは人に知られてはならない。どもりを否定的にとらえ、隠すようになったのは、この小学生時代の体験にあったように思う。
高校生のとき、同じクラスに自分のほかにもう一人どもる人がいた。彼は、普段の会話でもよくどもったため、口の悪いクラスメートは、彼のどもりをよくからかった。どもる真似をし、早く言えないことを面白がった。性格が明るく、人の良い彼は、そんなクラスメートに強く反抗することもなく、穏やかにやり過ごした。そんなどもる彼とクラスメートのやりとりを教室の隅で見ながら、私は人前でどもったときの周囲の反応を感じとっていた。どもったら人からからかわれ、馬鹿にされるという一つの現実を見ていたのだ。
この三人のどもりと出会った経験は、直接、自分自身がどもりを否定されたわけではないが、間接的に「どもりは劣ったものという烙印を押されたように心に強く刻まれた。そして、自分自身が中学生でどもり出して以来、人にどもりを知られ、あからさまになるのを恐れてきた。
その後、その会社を退職し、市の団体職員になって月日は流れ、大阪吃音教室で吃音についてたくさん学んだこともあって、吃音否定の感覚はずいぶん和らいでいた。しかし、まだ周りの反応へのネガティブな思いは、完全に払拭されていたわけではなかった。その職場では、年度末には会議で決算報告をするのが私の役割だ。毎年のことなので、なんとかやり過ごすことができていたのだが、その年の会議の日は、いつになくはじめからことばの調子が悪く、あやうさを感じていた。案の定、言いにくさを気にし出すと余計にことばが引っかかって途切れ、よくどもった。発表の時間がとても長く感じられた。ようやく終わって席に座ったときには、汗びっしょりになっていた。
会議が終わり、後片づけをしていると、横に座っていた上司から声をかけられ、よくどもっていたことを指摘された。思わず、私は自分がどもることを公表した。意外にさらっと打ち明けることができた。どもりの話題はすぐ雑談となって流れて終わった。
長い間、私は人にどもりを知られないように隠してきた。どもりは、みっともなく、恥ずかしいものだ。どもることがわかれば、からかわれ、馬鹿にされるに違いない。それは心が傷つき、とても耐えられず、恐ろしいことだと過去の経験から想像し、思い込んでいた。この吃音否定の物語は、上司との数分間の会話で一瞬にして書き換えられた。現実の世界でどもりに対する周囲の反応を体験した私は、「どもっても恐くない、大丈夫」という現実を知ったからだ。そこには、ただどもった事実があるだけだった。
どもりを隠し、悩んだ過去は、どもりのかくれんぼをしてきたようだ。私は、どもりが見つからないように息をひそめて人陰に隠れ、ときどき少し覗いては周囲の様子をうかがった。どもりを見つかった者が、鬼にからかわれ、いじめられる様子を見ては、その苦しさを想像した。だが、とうとう自分が見つかってみれば、どこにも鬼はいなかった。自分の妄想が鬼を作り上げていることに気づいた。上司にどもりを公表した時、ふっとからだの力がぬけ、身軽になったと感じた。どもりを覆っていた鎧を脱ぎ捨てた瞬間だった。
【作者感想】
「どもりを隠し、悩んだ過去は、どもりのかくれんぼをしてきたようだ。・・」から最後までの数行が、この文章で伝えたかったことだ。文章を書いてみて、あらためて自分が、「気の小さい、臆病な人間」であるのを思った。そういえば、亡くなった父親からどもらなかった小学生の頃、叱られるたび、何かにつけてよく言われた。
選者の講評で指摘された箇所を加筆した。おかげで小学生時代のもう一人のどもりが登場し、吃音否定の原体験を思い出すことができた。他人のどもりをからかっていた気の小さい、臆病な小学生が、中学生になって自分がどもりになった時、どんな悩み方をするのか、という視点が広がった。他人に読んでもらい、感想をもらうのはありがたい。
参加することに意義ありと、全回に応募してきた。10数年ぶり2回目の優秀賞だ。
文章を書く、励みになりとても嬉しい。
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2016年度 優秀賞
言いたくない理由が言葉になる時
田谷 栄子
「毎回、小学校高学年の子にやってもらってるんよ。お願いしてもいいかな?」
小学生の頃、先生から発表会の影アナウンスを依頼された。影アナウンスとは、発表会などで舞台袖から諸注意やプログラムを読み、司会進行する役割だ。当時私はどもることが怖く、どもる自分に対して強い劣等感をもっていた。同時にどもりながら原稿を読むことは自分から恥をかきにいくことと同じであった。小学校高学年だからとはいえ「正直やりたくないな」と思っていた。
また、この頃の私は「どもり」という言葉を嫌い、絶対に使おうとしなかった。「どもる」という言葉を使えば「私は変な人」だと自ら宣言しているように感じ、周りからも「普通の人ではない」とレッテルを貼られるようで、すごく恥ずかしかったからである。そんなこともあり、吃音のことを「言葉がつまったりつっかえたりする」という表現で、遠回しに影アナウンスをしたくないと先生に伝えたが、「私だって言葉がつっかえたりすることあるし、大丈夫やで」と返され、「どもる」という意味がなかなか伝わらなかった。「どもる」という言葉を使って説明できれば苦労はしなかったのかもしれないが、当時の私はどう言葉にしたらいいのか分からず、ただ「なぜ伝わらないのか」という悔しい感情が胸の中に溜まっていくだけであった。
結局影アナウンスを引き受けたのだが、本番中はどもる恐怖と読まないといけないという使命感がぶつかりあい、マイクの前で全身を使って闘いを繰り広げていた。しかし実際は何も読めずその場で固まっていたため、見かねた先生は代役を立てることを私に提案した。私はすんなりと受け入れ、周りから「原稿が読めない変な人」だと思われないだけましだと、影アナウンスから外れたことにほっとした。この出来事は自分の中の吃音を強烈に印象づけたが、その後もどもっているにも関わらず、「変な人」だと思われないために「私はどもりではない」と自分を思い込ませ、どもっている事実から目をそむけて小学校から高校までの学校生活を送っていた。
高校卒業後は大学に進学した。大学では福祉分野について学び、社会福祉士の受験資格を得るため、3回生の後期に実習に行くことになっていた。その準備段階で実習先のことを深く学ぶ実習ゼミというゼミを履修していたのだが、その講義の中でゼミ生が毎週テキストを音読する時間があった。他のゼミ生は淀みなく文章を読んでいく中、私はどもりながら文章を読むしかなかった。文章を読み終わると小学生の頃に感じていた、どもっている「間」の怖さを思い出し、「変な人」だと思われていないだろうか、どもっていてソーシャルワーカーになれるのかと急に不安になっていた。実習では吃音を意識することは少なかったが、「自分の吃音は嫌なもの」という感情と不安はずっとつきまとっていた。
そんな不安のなかで大学4回生になり、ソーシャルワーク演習の先生を選ぶ機会があった。どの先生の講義を受けようかと迷い、パソコンで先生の名前を調べていた。すると、吃音に詳しく自身もどもる人だという伊藤伸二さんの紹介が目に飛び込んできた。その時「吃音に対するヒントがもらえるかもしれない」と直感し、伊藤さんの講義を迷わず選んだ。それが伊藤さんと私が出会ったきっかけである。
伊藤さんは想像通り、最初からどもりながら講義をされていた。しかしそんな姿を見ると自分が人前でどもっているような感覚になり、どもる姿を自分自身と重ねていた。ある講義の日、講義中の伊藤さんの顔を見るのが嫌になり無意識に視線を机に向けている自分に気付いた。同時にどもる自分が「どもり仲間」を心のどこかで軽蔑しているのではないか、すなわち自分の吃音と向き合おうとしていなかったのではないかと気付かされ、心の中で「自分は何をしているのだろう」と思い、落ち込んだ。しかし考えるうちに「どもる仲間だからこそ、自分が聴いてほしい態度で講義を受けよう」と思い、それからは意識して伊藤さんの顔を見て講義を受けるようにした。そして約3ヶ月間伊藤さんの講義を受けるうちに、いつしかどもりながら講義をしている伊藤さんがかっこいいと素直に思うようになった。この頃から、目をそむけ続けていた自分の吃音と少しずつ向き合い始めていた。
社会人になった私は大学時代の縁もあり、日本吃音臨床研究会が主催する吃音ショートコースという、吃音のことを考える集まりに参加していた。こんなに吃音のことを深く考えるようになるとは、小学校時代の自分からすれば考えもしなかった事だと思う。しかし、実際は家族に「吃音ショートコースに行く」と言わずに「仕事の研修会がある」とごまかして参加していたため、2日目の夕食後に家族から電話がかかってきた。
「どこで何してるん!? ほんまにそんな時間まで研修会やってるん? はよ帰らんと危ないで!」
実は以前、大阪吃音教室に参加しようと「大阪のお寺まで行ってくる」と言ったがために新興宗教に騙されているのではないかという疑惑をもたれた経緯があり、家族は娘がどこで何をしているのか心配するのは当然だった。「わかってる」と一言返したものの、吃音ショートコースのことをどう説明したらいいのか分からず、まるで影アナウンスを依頼された時の、自分の吃音が説明できない小学生の頃に戻ったようであった。結局家族には詳しいことを話さず、早めに帰ることだけを言って電話を切った。
夜の講義後、このまま家族に吃音ショートコースのことをごまかそうか、どうしようかと考えていた。コミュニティーアワーの会場でその場におられた方に今までのことを相談すると、思いがけない言葉が返ってきた。
「それはあなたの中で何か言いたくない理由があるんじゃないかな。言えるようになるまで大切にもっていてもいいと思う。いつか『言いたい』と思えるようになってから言えばいいと思うよ」
それまで吃音のことを家族にどう伝えようとしか考えていなかったが、「言いたくない理由があれば言わなくてもいい」という選択肢は、頭の中になかった意外なものであった。同時に「それでもいいんだ」「言えなくてもよかったんだ」と自分の思いを肯定して下さったことで心がすっと軽くなった。
考えてみると、影アナウンスの時も私がどもれば家族が周りから変な目で見られるのではないかと思っていたこと、また家族に心配をかけたくないと思うあまり、学校で起こった出来事をあまり自分から話そうとしていなかったことを思い出した。それは、「心配をかけたくないからこそ言わない」という結果であった。
「心配をかけたくないからこそ言わない」という姿勢は吃音にも大きく影響していた。家族に自分の吃音のことを言いたくないのは、吃音の話をすること自体が恥ずかしいものだとどこかで思わされ、自分もそう思っていたのではないか。どもる自分のことを家族に話せない後ろめたさが、吃音の集まりへ参加することに対し、やましいと思う感情をもっていたことに繋がっているのではないか。考えをめぐらすと「言いたくない理由」が「家族を心配させたくない」という自分を守る術であったと同時に、自分自身の過去や思い込みにとらわれている結果、吃音に対する否定的な考えが根強いからだと気付いた。
「この集まりは大学の教授を講師に呼んでいる、由緒ある集まりだよ」
吃音の集まりに参加させるためにしていた意味づけも間違っていた。相談した方と話をするうちに、吃音ショートコースはやましさをもって参加する集まりではなく、自信をもって参加していると言ってもいいんだと思えるようになった。同時に吃音ショートコースのことを家族に話してもいいかも、とふと思った。
吃音ショートコースの会場と家は近く、仕事の関係もありその日で帰ることにしていた。帰宅すると時計は23時40分を指しており、我が家では遅い帰宅と言われる時間帯であった。私の帰りを待っていた家族は、案の定私にどこにいたかを訊いた。一瞬、自分が家に帰るまでいたところをごまかそうかと思ったが、ふと「今が言うべきタイミングかもしれない」と直感し「吃音ショートコース」と言ってみた。どんな言葉で返されるか胸がドキドキして不安だったが、「ふーん」と返され、特にそれ以上何かを訊かれることはなく会話はあっさり終了した。あれだけ「ごまかそうかどうしようか」と葛藤していたのにと思うと何だか拍子抜けしてしまったが、悩んでいたことに対して「それでもいい」と肯定や意味づけを変えて下さったからこそ、今いる拍子抜けした空間があるのかもしれない。あの時なぜ家族は深く話を掘り下げなかったのだろうかと今となって思うが、それは私が自分の言葉で話すのを待ってくれているのかもしれない、と勝手に考えている。本当のところはまだ分からないが。
それから今年に入り、私は吃音を考える会に参加しようと大阪吃音教室の予定表を家族に見せ、「ここに行く」と一言言ってみた。普段は「大阪に行ってくる」としか言わないのだが、思いきって紙を渡して見せると家族は「そうか、勉強してこい」と言ってくれた。少しだけだが自分がいる吃音の世界を話せた嬉しさで、会場に向かう道中にやましい気持ちはなかった。
初めて参加した吃音ショートコースから2年経つが、今でも自分の吃音の全てを家族に話せるようになった訳ではない。結果的には「言いたくない理由」に小学生の頃から時間をかけたことになるが、時間がかかってもそのことに向き合い続けたことで、様々な角度から吃音のことを深く考え実践されている方々に出会うことができた。今の私があるのは、その方々から「あなたはあなたのままでいい」と言葉や雰囲気で伝えて下さっているおかげである。
また、あの時の「言いたくない理由があれば言わなくてもいい」という後押しが今、吃音と向き合う力になっている。「言いたい」と思える境地に至るまでに一生かかるかもしれないし、自分自身のありのままを認めることですんなりと「言ってもいいかも」と境地が開けるかもしれない。どちらにしろ、自分の吃音と向き合い生きていくことに変わりはないのだ。
吃音ショートコースの出来事を通して、自分の言葉で言いたいことを言えるタイミングは必ず来るし、誰しもがそれを持っていることを確信した。そして自分のもっている意味づけを変えることも、「言ってもいい、言わなくてもいい」ということも、自分で選ぶことができるのだと身をもって感じている。言いたくない理由が言いたい言葉になるまで、これからも「吃音」というテーマを深く考え実践している方々と一緒に吃音のことを考えていきたい。
【作者感想】
初めて応募した作品が優秀賞に入選し、とても驚きました。嬉しい気持ちでいっぱいです。
去年の吃音ショートコースに参加した際、ことば文学賞に入選した作品が発表されるのを聴きながら「いつか応募したい」と思ったのが今回の作品を書くきっかけになりました。
何度も書き直しては読み返す作業は、当時の自分が何を考えどう行動していたのかを客観的にみることができ、まるで霧がじわじわと晴れて物語が少しずつ明確に整理されていくような感覚になりました。同時に、人は常に何かを選択しながら前に進み、これからも選択し続けていくのだと改めて感じました。今まで自分がしてきた選択が人との出会いを生み、その出会いから自分の考えが変わっていく面白さが伝わればと思います。
小学生の頃のエピソードは今のように吃音と向き合うことがなければ、「どもりで嫌だった記憶」として思い出すことはなかったと思います。改めて吃音のご縁に感謝し、これからも自分自身の中身や自分の吃音と向き合っていきたいと思います。
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