ことば文学賞 2015年度


最優秀賞 どもりの不幸と後悔の鍵 丹 佳子  
 

 中三のときに文化祭で人権劇をすることになった。生徒会の子たちが劇の中心メンバーになっていて、そのとき学級委員をしていた私にも先生が声をかけてきた。演劇は好きだったし、俳優や声優にもあこがれていた時期だったので出てみたいと思ったが、「どもって台詞が言えなくなったらどうしよう」と思いが先にたち、「どもりがあるから無理です」と断ってしまった。でも、引きずるものがあり・・・

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優秀賞 私の居場所 林 佳代  
 

 2012年の夏、当時付き合っていた彼と食事をしていたときのこと。
 「今日は話さないといけないことがあるねん」
 と私が思い切って言った。
 ・・・私が言いにくそうにしていると
 「あっ、そうそう、僕も話さないといけないことがあるねん」
 と彼は言った。
 「えっ、何?」
 と私が驚いて言うと・・・

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優秀賞 春の夕暮れ 鈴木 永弘  
 

 桜の花もあらかた散ってしまうと、春の暖かい陽射しに新しい生活を予感させられる季節が、毎年必ずやって来る。それは一年で最も苦手な季節。この頃になると、頭から首そして胸の上あたりまで、フワフワとした海綿が四六時中詰まっているようで、息苦しく、気持ちがザワザワとして落ち着かない。そんな時は、僕の吃音の調子も悪くなった。・・・

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2015年度 最優秀賞

どもりの不幸と後悔の鍵

丹 佳子

 中三のときに文化祭で人権劇をすることになった。生徒会の子たちが劇の中心メンバーになっていて、そのとき学級委員をしていた私にも先生が声をかけてきた。演劇は好きだったし、俳優や声優にもあこがれていた時期だったので出てみたいと思ったが、「どもって台詞が言えなくなったらどうしよう」と思いが先にたち、「どもりがあるから無理です」と断ってしまった。でも、引きずるものがあり、「やってみればよかったかも…もう一回先生声かけてくれないかなあ」と思っているうちに人数が集まったらしく、その後は声をかけられることもなかった。文化祭で演じられた劇は、同和地区の差別問題を描いた重いテーマのもので、同級生が一生懸命台詞を言い、がんばって演技をしている姿が印象的だった。「わたしもあの中に入りたかったな。でも、どもりがあるからやっぱり無理だったよね。」それが私と人権劇の最初の接点だった。
 それから15年ほど経ったころ、大阪吃音教室の伊藤さんや仲間と出会い、それまで否定し続けていたどもりの自分を受け入れることができるようになった。でも、「どもりだから」を理由に劇から逃げた後悔は、不幸な青春の象徴のように、心の中にずっと残っていた。
 大阪吃音教室に関わるうち、竹内レッスンというものがあるのを知った。プロの演出家である竹内敏晴さんが、演劇のレッスンを取り入れて、からだをほぐし、声を出しやすくするようなレッスンをし、3月には劇を舞台で発表するというものらしい。伊藤さんに「應典院の舞台を一度見てみたらいい」と言われので、「どんなものかな」と、安くはない電車代を払って見に行ってみた。このときの演目は『12人の怒れる男たち』で、舞台の上には、吃音教室やショートコースで知り合った仲間の姿もあった。体験レッスンのとき、歌のレッスンをしてくださったのだが、ことばの意味を考えながら皆で歌った『春が来た』も楽しかった。「みんな堂々といい声出しているなあ。歌のレッスンもいいなあ。私も参加したいけど、電車代とレッスン代…高いなあ」そうこうしているうちに1年経った。この間に一度、お試しのつもりでレッスンを受けに行った。「ゆらし」をしてもらっているとき、力を抜いているつもりなのに、竹内さんに「あなたは相手の動きを予想して自分で動こうとしているよ、あーこれはひどいね」と笑われたのを覚えている。その年も舞台を見に行った。その次の年も、さらにその次の年も見に行った。定期的にレッスンを受けたら舞台に出してもらえるということも知った。「レッスンも舞台もいいなあ。でも電車代とレッスン代…」まだ躊躇していた。
 そんなとき、地元でハンセン病に対する偏見や差別を無くするための人権劇をするので、キャストを市民から募集するというプロジェクトがあるのを知った。中学のとき、どもりだからというのを理由に逃げた人権劇に、今回はチャレンジしてみようと思った。不幸な青春を取り戻したいという思いもあった。キャストで応募し、そのまま役で使ってもらえることになった。実はこの時期、恋愛問題でこじれていて、このままでいくと、私ストーカーになるかも…という事態だった。この狂気を何かに転換しなければ。人権劇に出ることになったし、よし、竹内レッスンに行こう。電車代とレッスン代は高いけど、ストーカーで捕まるよりは、こっちを払った方がいい。この年ようやく年間を通してレッスンに通い、3月の応典院の舞台「ゲド戦記2」に、小さい役ではあるが立たせていただいた。
 人権劇の方では、練習のとき最初の方ではどもって台詞がいえなくなってしまったこともあったが、息を吐くタイミングに気を付けたり、ある程度の言い換えは許されたので、自分の言いやすいように台詞を変えて練習を重ねるうちに、どもって台詞がいえないということはなくなった。竹内レッスンで習ったまっすぐ息を出すこと、母音で押すように言葉を発することにも注意していた。そうしているうち、最初の脚本では、私の役は一場面だけの登場で台詞も少なかったが、書き直しの段階で、物語のクライマックスの場面にも登場し、重要な台詞を言うことになってしまった。うーん、大役過ぎるかも…でも、この台詞言ってみたいし、がんばってみよう。これは私の不幸な青春を取り戻す旅でもあるのだから。
 私の役は、ハンセン病患者の一人である。ハンセン病については、小泉元首相がらい予防法や隔離政策を違憲だったと認め、元患者さんたちと和解の握手をしていたことを、テレビのニュースで見て知っているくらいだった。劇に出るということで、ハンセン病のことを知るためにプロジェクトの人たちと一緒に、元患者さんの暮らす療養所を訪問した。そのときに、病気のため顔の一部分がゆがんでしまった方、手足が変形してしまった方、指のない方など、いろいろな方にお会いし、話を伺った。今は薬で治っているから感染することはないとわかっていても、最初一瞬ぎょっとしてしまった。それでも皆、暖かく迎えてくれた。話の中で元患者さんたちに、かつてこの収容所で何があったか伝えてほしい、無知と偏見が自分たちをさらに苦しめていることを知ってほしい、そして、生きていれば必ずいいことがあるから何があっても生き延びてほしい、ということを言われた。どん底の状態で、生きていれば必ずいいことがあるなぞ、どうして信じられたのだろう。この方たちの苦しみは私のどもりの苦しみの比ではない。人権を奪われ、肉体的にも傷つき、それにもかかわらず強制労働に駆り出され、病気が治っても差別は残り…理不尽である。私も自分のどもりを理不尽と思っていたが、もっと理不尽である。でも、それでも、私も苦しかったのだ。どもりの私の青春は苦しいものだったのだ。学生時代には、授業で発表するときにどもって皆に笑われ、就職活動では、面接で自分の名前を言うのに何十秒もかかり、そこから立て直せず、何社も落ち、就職してからは、電話でどもる度に「電話番もできないのか」と白い眼で見られ、落ち込み、誰かに相談しても、たかがそのくらいと真剣に受け取ってもらえず、私も苦しかったのだ。自殺寸前まで追いつめられたほど苦しかったのだ。ただ、今わかるのは、当時の私は、自分の苦しみしかわかろうとしなかっただろうということだ。「世の中にはもっと苦しんでいる人がいるよ」と言われても、「それがどうしたの。そんなの私と関係ない」としか、返答しなかっただろう。今は元患者さんたちの苦しみは、自分の苦しみよりもはるかに大きいものだとわかる。だからといって、完全にわかるとは言えないが、患者さんたちの苦しみに寄り添うことができる人間にはなれたと思う。そして、今回その気持ちを台詞に込めて言うことができる。生き延びてよかったと今は私も思える。
 クライマックスでの重要な台詞というのは、自殺を図ろうとした主役のハンセン病患者に「でも、私は、死んではいかんと思う」というものだった。短いけれども、それまで死ぬ方に向かっていた主役の気持ちや舞台の雰囲気が、ここから生の世界へ向かうようになる大事な台詞だ。相手に、客席の人に届くように言わなくては。心がけたのは、竹内レッスンで習ったこと…相手の呼吸に合わせること、一音一音を母音で押すように言うこと、奥歯を開けて息をまっすぐ出すこと、「ん」をきちんと一拍で発音すること…本番では、客席の奥の人を声で押すように集中して、私は台詞を言った。
 劇は成功に終わった。私も「声がよく通っていたね」とか「演技うまいね」とか褒められた。私も舞台が成功して嬉しかった。が、果たして不幸な青春を取り戻せたのかというと、その感じはなかった。結局のところ、人生は一瞬一瞬の積み重ねで、過去のピースの穴を埋めようとしたところで、現在を生きる私には、それと同じピースを手に入れることはできないのだ。でもまあ、今回この劇に関われたことで、年齢やら仕事やらいろいろ幅のある人たちと出会えたり、皆で舞台を作っていくわくわく感や祝祭のような本番の楽しさを味わえたりしたのだから、もういいやと思えた。こだわっていたものに、けりがついたような気がした。その一方で、もしどもりでなく中学生のとき劇に出ていたら、ただ表面だけうまく見せようとしか考えずに演じ、それで満足して終わったかもしれないとも思った。そうしたら、竹内レッスンにも今回の人権劇にも参加することはなく、からだや声、そしてことばについても真剣に学ぶことはなかったろう。忙しさにかまけ、自分の世界から出ることもなく、新しいことにチャレンジしようとも思わなかったろう。それから隔年で催される地元の人権劇で、私は毎回キャストで声をかけていただくことになった。口では「またですか」と言いながら、内心喜んで出演させていただいている。今年で4度目である。
 どもりだからという理由で、劇をはじめ、いろんなことから逃げてきた青春だった。それでやり残したと後悔していることもたくさんある。でも、後悔は次の扉を開ける鍵になりうるのである。その扉の前に立ったとき、以前よりも成長した自分でありたいと思う。

【選者講評】
 選者にも、劇にまつわる苦い思い出がある。というより、21歳までの私の生き方に大きく影響したできごとだ。せりふのある役を外されたことで、どもりは悪いもの、劣ったもの、恥ずかしいもの、あってはならないものになった。そして、50年後、名古屋・東京での舞台、大阪さくらホールでの舞台、毎年の吃音親子サマーキャンプでの芝居で、ようやくそのときの痛みが少しずつ薄らいでいったのだ。
 筆者の人権劇との出会いもそのようなものだったのだろう。筆者の心の変遷が、劇というものを軸として、読む者に圧倒的な力で迫ってくる。読み応えのある作品である。
 ハンセン病患者の話から得たもの、竹内レッスンから得たもの、再び人権劇と出会い、出演して得たもの、それら全てが、今の筆者を作り上げている。
 過去のピースの穴を埋めようとしても現在を生きる筆者には同じピースを手に入れることはできない。しかし、筆者は言う。後悔は次の扉を開ける鍵になりうる、と。そして、その扉の前に立ったとき以前より成長した自分でありたい、と。筆者のひたむきな生きる姿勢にふれ、背筋がピンと伸びる思いである。

【作者感想】
 大賞をいただき、ありがとうございます。これまでショートコースやJSPに出会うまでのことを書いていたので、出会ってからのことを書いてみたいと思って、書いてみました。最初は吃音のことをもっとよく知ろうとショートコースに参加したのですが、実際参加してみたら、吃音のことというよりは、どう他人とうまくコミュニケーションをとるかとか、吃音と共にどう生きるかということを勉強することになり、正直面食らいました。でもその結果、楽にどもれるようになり、楽に生きられるスキルをいくつもゲットできて、出会えたJSPの皆さん、会長の伊藤さん、講師の方々に感謝感謝です。最後に、ことば文学賞発表のとき、すてきな声で朗読してくださった溝口さん、ありがとうございました。自分の文が読まれている間、最初は恥ずかしいと思うのですが、溝口さんの緩急のある語りで、場にあたたかい笑いが起こったり、しーんとした中に皆も共感してくれているんだなと思えたりしたときは、うれしくなりました。

2015年度受賞全作品ページ

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2015年度 優秀賞

私の居場所

林 佳代

 2012年の夏、当時付き合っていた彼と食事をしていたときのこと。
 「今日は話さないといけないことがあるねん」
 と私が思い切って言った。
 「えっ、どうしたん?あらたまって…」
 「…」
 私が言いにくそうにしていると
 「あっ、そうそう、僕も話さないといけないことがあるねん」
 と彼は言った。
 「えっ、何?」
 と私が驚いて言うと
 「どっちが先に言う?」
 「じゃぁ、先に言って」
 「実は僕…」
 「うん…」
 「最近、株で損してしまってん…」
 「えっ!?」
 なーんや、そんなことか…と言いたかったが、ぐっと飲み込んだ。
 「で、佳代ちゃんの方は?」
 「実は…私…どもるねん…」
 とおそるおそる言ったが、
 「あっ、そうなんや!もっと重大なこと言われるのかと思ってドキドキした。さぁ、ご飯食べよう」
 と言って笑われた。「私が一番気にしている吃音のことを言ったのに、その反応はないやろう!」と心の中で思った。私は彼に自分がどもることを話せてほっとしたのと同時に、「この人吃音のこと全然わかってないな」と感じた。今まで私が吃音でどんなに悩んで苦労してきたか、私の気持ちをわかってくれてないなと思った。
 それ以来、しばらく吃音の話をすることはなかったが、ある日、彼が
 「来週、仕事でプレゼンがあるねん。人前で話すのが苦手やからいややわ。前、佳代ちゃんどもるって言ってたけど、僕も話すことにコンプレックスがあるねん。昔、スピーチのレッスンにも通ったことあるぐらいやで。僕はどもらないけど、人それぞれ苦手なことがあるもんやで」
 と言った。その話を聞いて、私は今まで、自分だけが吃音で苦しい思いをしてきたと、思い込んでいたことに気付いた。彼にもそんなコンプレックスがあったんだ、自分の弱い部分を話してくれて嬉しかった。
 その後もお付き合いは順調に続き、そろそろお互い結婚を意識し始めた。しかし、優柔不断な私はなかなか結婚を決意できなかった。そんな時、私が仕事で腰を痛めて、しばらく病休を取ることになった。歩くのも大変で、こんなにひどい状態がいつまで続くのかという不安と、仕事を休んでしまったという罪悪感で、心身ともに疲れ果てていた。そんなとき、彼が
 「しんどいときは休めばいいよ。教師の代わりはいくらでもいるけど、佳代ちゃんの代わりはいないよ。今まで頑張って仕事してきたんやから、しばらくゆっくり休めばいいよ。もし、もう仕事するのが大変やったら、永久就職してもいいし!」
 と言ってくれた。その言葉を聞いて、この人の前なら、しんどいときは頑張っている自分を見せなくてもいい、しんどいと言える、ありのままの自分を見せられると思った。
 そして、2013年の2月、私たちは結婚した。翌月には、妊娠していることがわかり、秋には家族が増えることになった。
 出産予定日より1週間ほど早い、11月13日の朝、今までに経験したことがないようなお腹の張りと腰の痛みに襲われた。これはもしかして陣痛!? と思い、すぐに産婦人科に電話をかけた。電話が苦手な私は、受話器の前で行ったり来たりして、なかなか電話をかけられないこともあるのだが、今日は受話器に飛びついた。しかし、こんな緊急事態のときにもなかなか名前が言えず、「えーっと…」「あのー」と繰り返していた。そのときは、どもって声が出ないことより、陣痛の痛みの方が辛くて、冷や汗が出てきた。そして、なんとか「はやし」は出たが、看護師さんに「下のお名前も教えてください」と言われて、またしばらく苦しむことになった。もう一度、苗字から言いなおそうと思ったが、「はやし」も出なかった。手でリズムをつけて言おうとしても声が出なかった。普段、どうしても名前が言えないときは、身体を動かしたり、歩きながら言ったりすると出るときがあるのだが、このときばかりは歩くこともできず、「えーっと…」「あのー」と言いながら、ひたすら声が出るのを待った。そのとき、病院へ行く用意をしていた夫が部屋に入ってきたので、代わりに言ってもらおうと思った瞬間、「かよ」と名前が出た。ほんの数十秒の時間だったと思うが、吃音と陣痛のダブルパンチでとても長く感じられた。
 後日、夫にその話をすると、「緊急事態やってんから、代わったのに。そんなところで頑張らんでもいいやん」と笑われた。でも、私は陣痛で苦しみながらも、自分で名前を言えて良かった。電話でこんなにひどくどもったのは久しぶりだったので、自分でもびっくりしたが、どもっているうちに声が出たし、いくらどもってもなんとかなるものだなと思った。
 吃音で一人悩んでいた頃は、人前でどもるのが嫌で、どもりを隠すのに必死だった。それに、誰かに吃音の話をするなんて考えられなかったし、吃音のことで笑える日がくるなんて思ってもみなかった。
 吃音教室と出合う前の私は、どもりは劣ったもの、どもっていたら就職ができない、など吃音をマイナスにしか考えられなかった。だから、どもりをどうしても治したくて、スピーチクリニックにも通ったことがある。何度も発声練習をしたり、電話の練習をしたりしたが、まったく治らなかった。それなのに、先生からは「頑張って練習しよう」と言われ続けた。自分では精一杯頑張っているのに、これ以上どう頑張ったらいいの?と途方に暮れてしまった。だから、私は「頑張れ」という言葉があまり好きではない。どんなに努力してもできないことはある。
 吃音教室で伊藤さんに「吃音は治らない」と聞いて、「自分の努力が足りなかったわけではなかったんだ」とほっとした。それに、今まで吃音をマイナスにしか考えられなかったけれど、どもりながらも笑顔で話をしているたくさんの人を見て、「どもることを隠さなくていいんだ」「どもりながらでも楽しく生きていけるんだ」と気持ちが楽になった。そして、自分は一人ではない、たくさんのすばらしい仲間がいる、ここが私の居場所だと思った。
 結婚してもうすぐ3年。夫とはよくケンカをするし、「吃音は治さなくていいけど、性格がきついのは直してほしい」と言われることもある。だけど、夫は私がどんなにどもっても最後まで話を聞いてくれるので、この人の前ならいくらどもってもいいという安心感がある。ここにも、私の居場所がある。
 これからも、どもりで悩んだり、困ったりすることがあると思うけれど、きっと大丈夫…私には居場所が2つもあるのだから。

【作者感想】
 久しぶりにショートコースへ参加できただけでも幸せだったのに、優秀賞までいただき、とても嬉しく思います。ありがとうございました。
 夫に文学賞作品を見せたら、「吃音教室の人たちと出会えて良かったね。こんな場なんてめったにないねんから、これからも吃音教室の人たちを大事にしなあかんで」と言われました。吃音の話をできる人たちが身近にいて、ありのままの自分の姿を見せられることは本当にありがたいことです。
 自分がどもることを相手に伝えるのは少し勇気がいることですが、相手も自分のコンプレックスを話してくれることもあるので、人間関係が深まる場合も多いと思います。私と夫の場合もお互いのコンプレックスを話すことで距離が縮まりました。
 以前は、吃音も腰痛も私を困らせるものでしかなかったのですが、結婚できたのは、吃音と腰痛のおかげだと思うので、これからも上手く付き合っていきたいと思います。

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2015年度 優秀賞

春の夕暮れ

鈴木 永弘

 桜の花もあらかた散ってしまうと、春の暖かい陽射しに新しい生活を予感させられる季節が、毎年必ずやって来る。それは一年で最も苦手な季節。この頃になると、頭から首そして胸の上あたりまで、フワフワとした海綿が四六時中詰まっているようで、息苦しく、気持ちがザワザワとして落ち着かない。そんな時は、僕の吃音の調子も悪くなった。 とくに今年は中学生最後の一年間。新学期が始まってから、何となく憂鬱な毎日が続いている。小学校から中学校に進学する時も不安でたまらなかったけれど、高校生になる不安は僕の心を押し潰してしまいそうだ。これまで、そういう時には出来るだけ今の状況から目を背け、不安を感じないようにしてやり過ごして来た。
 僕はいつだって現実を直視することは出来なかった。意識して今の状況から目を背けようとする行為は、不安が過ぎ去ったあとから生まれて来るもので、不安に支配されている時やどもっている時には、無意識のうちにマイナスの感情が身体を支配し、何をすることも出来ない状態になった。一刻も早くその場から逃れたい、消え去りたいという願いがあるだけだった。

 小学5年生から通っていた学習塾を、中学2年生の3学期で辞めた。この塾の授業は、問題集の解答を順番に発表していくというやり方だった。どもる僕にとって、90分間の授業で何十回も当てられるのは苦痛だった。しかも大学を出て間もない国語の教師は、親切にも授業が終わってから、僕のどもりを治すための発声練習までしてくれた。高校受験まであと1年の辛抱だったが、もう限界だった。1か月前までは学校の授業が終ったら、クラブの練習があり、その後、家に帰ると少し早い夕食を慌ただしく摂ってからすぐ塾に行き、夜の9時頃まで勉強をするという忙しい毎日だった。今はクラブ活動も辞めて自由な時間はたっぷりとあるが、塾もクラブも途中で挫折してしまったことで、家での勉強時間をもっと増やすように、母から口うるさく言われるようになった。
 今日は土曜日なので、昼過ぎには帰宅し、テレビを観ながらご飯を食べるとすぐ、勉強をする素振りを見せるかのようにして自分の部屋に行った。しかし机の前に座っても、気分が暗く沈んでしまって仕方がない。明日は日曜日なのに…。まだ休みが始まったばかりだというのに。
 今朝、学校で社会科の学年最初の授業があった。教科書の内容に入る前に教師は一つの質問をした。
 「もし、将来大人になってから戦争が起こったとしたら、君たちは戦場へ行きますか?」
 「今から紙を配るので、考えを書いてみなさい。」
 戦争ということばを聞いた僕は、心がざわついて暗い気持ちになった。僕の父は「あと少し太平洋戦争が長引いていたら、兵隊として戦争へ行く覚悟があった。そうすればお国のために働くことが出来たのに、あの時は無念だった。」というような話をする。戦時中は軍需工場で働いた、昭和一桁生まれの男である。日頃から工場での生活や戦時中の苦労話が、頻繁に家族の会話に登場した。その会話の内容から、僕が想像する戦争のイメージがあった。「軍隊はとても厳しい。全て迅速に決められた通りにしなければならない。軍隊では皆同じ行動、同じ考え、同じ話し方をしなければならない。きっと、どもりは厳しく矯正され、とても辛い思いをしなくてはいけない。」「今、中学校の授業でも毎日が苦痛なのに、軍隊に入ったら、訓練という名の体罰やいじめのような日々から逃げ出してしまうに違いない。」父の話を聞きながら、その時のためにどこに逃げれば良いのだろうか、という空想までしていた。
 全員に紙が配られ、自分の考えを書かなければならなくなった時には、心臓がドキドキし、どう書けば良いものかわからなかった。本当は、「逃げ出したい」と書きたかった。しかし、「昔は国のためとか天皇陛下への忠誠を尽くすために、日本人は戦場へ行ったと聞くが、愛する人のためや大切な家族を守るために、と考えることも出来るぞ。」と言う教師のことばを聞いてしまった後では「よくわかりませんが、大切な人は守りたいと思います。」と書くのが精一杯だった。
 その日の授業が終わり、学校から帰る途中で、友達が今日の社会科の授業についてしゃべり出した。
 「やっぱり、愛する人や家族は守らんとあかんやろ。男やしな。お前もそうやろ。」
 「まあな…、大切なものは守らんとな。」
 「そうやで、恋人や親は自分の力で守らんと。国のためやないで。大切な人のためや。」
 僕は道端に転がっている空き缶を蹴って、友達にパスをした。この話はそこで途切れ、空き缶をパスし合いながら家の近くまで一緒に帰った。

 机の前には、仏像の写真と、小学生の時に友達の影響を受けて好きになった、カンフー映画のポスターが貼ってある。最近、興味を持ち始めたお寺や神社の建築物、またその建物の中に安置されている仏像を観たくて、休みの日には時々一人で京都や奈良に行き、仏像の写真を買ってきて壁に貼るようになった。
 窓から入ってくる春の優しい日差しが、その写真を照らしている。光に照らされた写真も綺麗だが、実際の古い建築物や仏像はほんとうに美しいと思う。美しいと思うと同時に恐怖でもある。「生への恐怖」である。それらが経て来た時代の流れ、時間の経過は「生きること」、「命」を連想させる。以前、授業で仏教の教え「生きることの苦」について習った。ただ、あまり詳しくは説明されず、その時はよく理解出来なかったのだが、いつか仏教関連の本を読んでみたいと思う。
 楽しいはずの休日を前にしてこんなことを考えているのも、吃音であることが関係しているのだろうか。今の僕にとって生きている「苦」は吃音だ。しかもその吃音は、自分自身にもよくわからないものだ。これからどうして生きて行けば良いのか見当もつかない。いつも吃音のことを考えると、混沌とした世界に入り込んでしまう。
 小学生の頃はもっと清みきった世界だった。親や教師の言う通りにしていれば、すべての物事が進んで行った。どもって落ち込むことは多々あったが、深く考えないようにする方法で乗り切ることは出来た。自分を誤魔化してでも前に進めば、先には道が用意されていると思っていた。親も教師も吃音のことは心配しなくても、いつかは消えてなくなると教えてくれた。それよりもしっかりと勉強をして、学校の授業を理解することが大切だと。そして、清みきった世界で教えられたことをそのまま覚えて、紙に書き写すことはその時は容易に出来ていた。
 今では清みきった世界は無くなり混沌としている。けれど、その中でいろいろと思いを巡らすのは心地良い。昔は用意されていると思っていた道も、もう見えない。そのかわり道がないなら、どこへ向かって歩こうが自由だ。
 「人生はほんとうに苦なのか? 吃音のある人生は、ほんとうに苦なのか? 吃音が治ったら、道は開けているのか? どもると吃音の調子が悪いのか?良いのか? 大切な人を守るためには、戦うしか方法はないのか? 本当に守るべきものは何なのか? 本当に大切なものは何なのか?」
 考えることは多く、それらは容易ではない。また、長年身体に沁みついた、現実に背を向ける習慣はそうすぐには変えることは出来ないだろう。不安や困難の渦中で現実を直視し行動に移すことは、まだ当分…、もしかしたら一生無理かもしれない。でも、考えることは大切にしていきたい。そして、今は到底出来そうにないけれど、考えたことを他人に伝えられる人になりたい。

 そう思っていても、現実の生活は苦労の連続だ。新学期が始まったばかりだから、新しく知り合ったクラスメートもいる。彼らは授業中の発表や本読みで、僕のどもる姿を始めて目にすることだろう。そんな彼らとも上手く付き合っていかなければならない。
 あと少しでゴールデンウィークが始まる。それまでどうにか頑張って、連休で一息ついて、また今度は夏休みまで頑張る。今の僕には、そうするしか仕方なさそうだ。
 沈んだ気分であれこれと思いを巡らせているうちに、いつの間にか春の陽気に誘われて、机に突っ伏す形で眠ってしまっていた。陽が沈みかけ、ガラス戸を全開にしている窓から流れ込んでくる空気に、僕は肌寒さを覚えて目が覚める。そして椅子から立ち上がり、薄暗くなっている部屋の壁に貼ってある、カンフー映画のポスターを剥がした。

【選者講評】
 文学賞ということばにふさわしい文学作品である。特に、書き出しの美しい情景描写には思わず引き込まれる。
 4月の新学期からゴールデンウィークまでの、ある土曜日の春の夕暮れの一日の描写。その一日に至るまでの心の旅が、淡い光の中で、回想シーンを見るかのように綴られている。
 作品全体を通して流れている「考える」というテーマは、小学校の時にはあまり考えないようにすることで、筆者を助けてきた。だが、中学生になって混沌とする中で思いを巡らすことが心地よくなってからは、吃音の悩みもより深まったものの、その苦悩が、筆者の考える力を育んでいく。教師の戦争への問いかけにも、吃音を通して、吃音と深くかかわりながら、独自の切り口で答えを出している。
 じっくり深く考えることで、作者は、自分のことばを耕してきた。使われていることばのひとつひとつが洗練され、作者のセンスが光る。
 カンフーのポスターを剥がしたことで、考えたことを他者に伝えるために、自分の力で歩きだそうと決意したのではないだろうか。

【作者感想】
 ことば文学賞優秀賞をいただき、ありがとうございます。今回は学生生活を送っていた時代の混沌とした気持ちを、あえてまとまりのない文章で表現したいと思っていました。読み返してみると、まとまってしまっていますが、吃音だけでは決してなかった、しかし吃音が厚い霞のように覆いかぶさっていた中学生時代のエピソードの描写から、読まれた人がそれぞれの思いを持っていただければ、たいへん嬉しいことだと思います。

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