2014年度 最優秀賞
吃音物語
東 めぐみ
「世の中にはどんな健全な人間をでも、一見変質者らしく振る舞わせる二つの大きな原因があるが、その一つは食物の飢餓であり、もう一つは愛の飢餓である」
これは私の人生のバイブルとしている下村湖人著『次郎物語』の名言であるが、恐れながら私はこれにもう一文つけ加えたい。
「変質者らしく見せる三つめの原因、それは言葉の飢餓である」と。
本格的にどもりであることを悩み始めたのは社会人になってからであり、学生の頃にいくつかアルバイトを経験した結果、自分に向いている職種は接客業であると確信したことが闘いの始まりであった。まさかどもりが接客の妨げになるなどとは考えなかったからだ。それは幼少期と比較すると、言葉の言い換えや独自の言い回しで、うまくどもりをごまかすことができるように変わっていたからだと思う。発話に詰まった時の、無限に思える魔の時間。それを刻む時の間隔が修練され、いつの間にか積極的に突き進んでいたこと。一点集中よりもリズムだろう。組み合わせだろう。そして何よりも、誰にも迷惑をかけなければ問題ない、自分は自分、他人は他人という薄情な根性が、私を自信家に仕立てあげていたのだ。日々どもりながらも、どもりは全く弊害のないものだと信じていたのである。
しかし、念願の接客業に就いたことで、誰にも迷惑はかからない、という主張が自分勝手な考え方であるということに気づかされると同時に、十数年かかって鍛え上げたはずの精神がガラスのようにあっさりと砕け散った。百貨店に就職した私は、研修の三日間で逃げたい衝動に駆られた。研修ではロールプレイングがあり、順に決まった接客フレーズを話していかなければならない。そして一人が終わる度、悪いと思うところを皆が指摘していくのである。私は当然、どもっていることを数名から指摘され、まるで公開処刑のように感じた。最上階から最下層への墜落。「こんなん、どっかで見たなあ」というデジャヴ。
ああそうだ。国語の朗読だ。ちょうどこんな雰囲気だった。だが今は顔を隠すための教科書はない。それにあの時は友人に囲まれていた。今は初対面の四十名ほどがこちらを覗き見、非難している。誰にも伝わらない孤独感。比較されたくないという劣等感。錯綜する記憶。私はその場でしゃくり泣いてしまった。どもりであることが理由で、こんなに悲痛を感じ泣いたのは初めてだった。まさか人前で泣くことになるとは思わなかったが、どうしても涙をこらえることができなかった。
「今は研修中ですから、どもっても構わないですが、店頭に立つ時は絶対にどもらないで下さいね」
研修担当者が放ったこの止めの一撃が、今なおずっしりと胸に応え続けることとなった。「どもらない。それは不可能」だという絶望感から、すぐに辞めることを決意した。
しかし、研修が終わり帰宅する準備をしていると、私が配属される先の部署の先輩が挨拶に来て下さったことで、一筋の光が差した。それまでの研修とは打って変わる優しい眼差しと天使のような柔らかな口調。この方の元で働けるなら! という希望が湧き、元来の優柔不断の性格も影響して、できるところまでやってみようと、逃げたい気持ちを抑えた。同時に、何としてもどもりであることを隠し通さなければならない、という使命感が芽生えた。
どもってしまうと相手の時間も奪ってしまい、電話代も倍かかる。「おかしな店員がいる店」と評判が立ち、会社のイメージも損なうことになる。研修の時に念押しするように放たれたあの言葉は会社の意志であり、それに従うことができないのであれば、私自身が悪い。絶対にどもることは許されないのだ。
ところが、いざ店頭に立ち接客をすると、少々どもることはあっても、言葉の言い換えやジェスチャーなどで十分対応でき、研修で味わったような悲惨な状態にはならなかったので安心した。だが気の休まる時間も束の間、電話の応対が私を困らせた。
電話の場合、最初に発する言葉でどもってしまうと、後に控える普段問題なく発話できている言葉も全てドミノ倒しのように崩れてしまうからだ。それに加え、会社名がやたら長い上に苦手な言葉から始まる。先輩方は七秒ほどで言い終えていたが、私は倍かかっても言えず惨敗した。受話器を持つ手が震え、嫌な汗をかく。その度に、電話機の機能が業務用にもっと向上してくれることを願った。受話器をとれば、お決まりのご挨拶と会社名が先方に流れるようなシステムを導入してさえくれれば、こんなに苦労をする必要はないのだから。
いや電話機に文句を言っても仕方がない。私は悩んだ末、電機屋に向かい当時一番性能の良い最新のオリンパスのボイスレコーダーを購入した。再生する時に、できるだけ生の音声に近いものが良いと店員に告げ、案内された機種がそれだった。
帰宅すると早速、電話応対時の挨拶と会社名を録音した。うまく言えたと思ったものを再生してみる。なかなかクリアに聞こえるじゃないか。これなら周りで聞かれていても違和感を感じないかもしれない。頼もしい相棒が現れたことに、私はニヤリ笑った。
翌日、相棒の出番が来た。恐れるものは何もない。気はすっかり大きくなっていた。受話機をとる。昨日録音したものを再生する。自らの幼稚な声が流れる。出だしは当然完璧であったため、後は落ちついて順調に会話ができ、相棒とのファインプレーは見事成功を収めた。
だが戦法はすぐに周りに気づかれた。あの天使のような先輩が、ニコニコ笑顔で近寄り「何やってるん?」とこれまた優しい口調で聞いてきた。京都弁の発音で。私はどもりであることを知られるよりも、変人だと思われる方がマシだと考えていたので「気にしないで下さい」と先輩のような最高の笑顔で応えた。
しかしほどなくして、私は相棒と別れる決心をした。再生ボタンを押す度になんだか空しい気分になり、そんなものにすがりついている自分が嫌になってきたからだ。勇気を奮い立たせて名乗ることを決し、あれから七年経つが、いまだにきちんと社名を名乗ることができずにいる。ものすごく省略し、毎日ごまかし続けているが、それでもボイスレコーダーに頼っていた頃よりはずっと気分が良い。
最近になって大阪吃音教室を訪れるようになり、吃音という言葉を知り、私の知らないところでこんなにもたくさんのどもり人(じん)がいることがわかり嬉しくなった。今まで自分以外のどもり人に出会ったことがなかったため、意外と身のまわりにもたくさんいるのではないか? と思い始めた。すると、職場など日常生活で、どこからかどもりながら話されている声が聞こえてくるようになった。あの人もどもりかあ、と確認すると自分の味方が増えたような気になり、また嬉しくなる。とりわけ一番驚かされたのが、失礼ながら変人であると勝手に怪しんでいたお客様がいるのだが、変人ではなく、ただのどもり人であったということだ。そのお客様は常連で、しょっちゅう電話で商品の問い合わせをされたり、御来店して下さるのだが、話し方がとにかく変だったのだ。特に御来店されて直接お話をする時よりも、電話の方が様子がおかしい。突然長い沈黙があったり、声を伸ばしたりされることもある。私は自分がどもりで悩んでいる身でありながら、知らずとはいえ仲間をただの変人で片付けてしまっていたことを、胸中で詫びた。
先にも紹介した『次郎物語』。私は辛いことがあるといつも主人公次郎に励まされた。なかでも最も勇気づけられた言葉がある。
「命も命ぶりで卑怯な命は役に立たない。卑怯な命というのは自分の運命を喜ぶことの出来ない命だ。その運命に身を任せるというのは、どうなってもいいと言うんでない。その運命の中で気持ちよく努力することだ。結局は運命に勝たなければいけない。だが闘うことばかり考えていると、つい無茶をやるようになる。無茶では運命に勝てない。自分では力の及ばないことや道理にはずれたことをするとかえって負ける。それに勝てるのは、ただ命の力だ。勝つことや負けることを忘れて、ただ自分を伸ばす工夫さえしていけば、おのずとそれが勝つことになるんだ。だけど自分を伸ばすためには先ず運命に身を任せることが大切だ。楽しんで生きる工夫をし、敵にまわして闘うのじゃない。有難い味方だと思いそれに親しむ。それでこそほんとうに自分を伸ばすことが出来る。運命を喜ぶものだけが正しく伸びる。そして正しく伸びるものだけが運命に勝つ」
これは物語中で、次郎の恩師である朝倉先生が次郎に放った言葉であるが、私は「運命」を「どもり」に置き換えて何度も読んだ。
そして、大阪吃音教室の考えである、「吃音は治らないのだから、治そうとせず、吃音と共に生きる努力をする」という方針が、朝倉先生の言葉と深く合致した。
吃音と共に生きていく覚悟を決めることができたものの、堂々と人前でどもってみる、という段階に進むには、まだまだ努力の途中だ。「絶対にどもらないでくださいね」という声がある限り、「どもってはいけない」という背水の陣を敷かないでいることが、私にできるだろうか。当分できそうにない。
ただ安心していいのは、もう一人ではないということだ。今は気ままに吃音教室に参加して、もっといろいろな話を聞きたい。それだけだ。
【作者感想】
趣味の範囲で、詩や絵本の創作をしていますが、この「ことば文学賞」に応募をするという機会がなければ、「どもり」というテーマに手を付けることは今後もなかったであろうと思います。それは、意識して避けていたわけではなく、絶えずネタを探していた時でさえ、「どもり」を題材にしてものを書くという発想が出て来なかったことを考えると、「どもり」を体の一部として受け入れながら、コンプレックスを忘れたくて他のテーマに没頭していたせいかもしれないし、自分が考えているほど気にしていなかったかもしれない。
このような、もやもやの観念を言語化する修業というのは、自分を解体しているようで面白い作業でした。
書いていて、この吃音という運命に悩むのは自分も含め、吃音を受け入れない「雰囲気」に問題があるように思いました。(結局はおまえ、他人や環境のせいにするのか。と思われるかもしれませんが。)個人を責めることはできない。でも、私が感じたはずの心情から、死ぬ思いをして、実際命を絶つ人はいると思う。(もちろん吃音だけの問題ではない。)だから、私の心情的な気持ちはできるだけ正確に整理して書こうと考えていましたが、わかってほしいことがたくさんありすぎる余りに、自分本意の欲ばりな文章になってしまったのではないかと思うところもありましたが、結果、賞をいただけたことは素直に嬉しく思います。
この度の最優秀賞は、9割9分、次郎と朝倉先生がいただいたようなものなので、改めて下村湖人の偉大さを痛感いたしました。そして、選考して下さった方や、いつも楽しく接してくださる吃音教室の皆さま、ありがとうございました。
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2014年度 優秀賞
教育実習への挑戦
斉 洋之
私は、大学時代に教育実習を経験した。当時のどもりの症状はひどいものであり、とても教育実習などやれる状況ではなかったと思う。家庭教師や塾の講師をやりたいという気持ちはあったのであるが、どもりのためにできないと思い逃げていたのである。このような自分に、教育実習ができるのだろうかとだいぶ考えた。そのような中で教育実習に挑戦することに決め、結局何とかやり抜くことができた。ここで当時の気持ちを振り返ってみたい。
私が入学した大学の学部には、選択科目として教職課程があった。教職課程を履修し、教育実習の単位をとれば、教員免許が取得できた。当時の私は、どもりの症状がひどいことから、教員になるつもりはまったくなかった。しかし、周りの同級生の多くが教職課程を履修しているので、私も教職課程を履修しておくことにした。教育実習については、その時が来たら決めればいいことで、どもりが治らなければ教育実習をやめて、教員免許を取ることをあきらめればいいだけと考えていた。
教育実習をやるかどうかの選択をする第一関門が大学3年の夏休みに来た。夏休み前にあった教育実習の説明会で、出身高校で教育実習をする場合は夏休み中に学校を訪問し、了解をもらってくることになった。他にも大学の斡旋で教育実習をするという選択肢があり、こちらは決断の時期を先送りすることができたが、まったく知らない高校で実習をすることは、自分にとってはとても考えられなかった。そこで、出身高校に連絡を取り、事情を説明して先生の意見をもらうことにした。幸いだったことは、私のどもりを知る高校3年時のクラス担任の先生と担当科目となる化学の先生が、ともにまだ出身高校に残っていたことであった。この時には、2人の先生たちが私のどもりのことを知っているので、もしもの場合には途中で断っても許されるのではないかと思っていた。クラス担任だった先生に電話をすることにも大変な勇気が必要であったが、なんとか連絡して学校を訪問することになった。担任の先生は歓迎してくれて、昨年同じクラスだった同級生が実習に来たことを教えてくれた。教え子が教育実習に来ることを歓迎しているようであった。私は先生に相談して無理だと言われたら、その時には実習をやめることができ、大学の仲間にも仕方なかったと説明がつくと考えていた。一方では、それを少し期待する自分もいた。先生にどもりで不安なことを話したが、先生の答えは「やってみれば」であった。そして、いつでも相談に乗るとも言ってくれた。化学の先生も同様で、私の担当する予定の部分については、もう一度授業をやり直すので心配しなくていいとのことであった。本来であれば、非常に屈辱的なことばであるが、その時の自分にとっては、安心して教育実習に挑戦するのに十分な言葉であった。結局、この時点では教育実習をやってみることに決めた。
大学4年になり、教育実習本番の時が来た。教育実習の実施時期は、全国で統一されているわけではなく、それぞれの学校ごとに決まっているので、当然大学内でも早くやる学生から順番に実習をすることになった。私の出身校での教育実習日程は遅いほうであったので、先に教育実習を行った同級生から感想を聞いたりしていた。とてもよかったという話が大半で、その度に緊張感が高まっていくのを感じた。この時点で、もう逃げることはできないと覚悟を決めた。そうなると、ブロックで言葉が出なくなったときの対処法を考えておく必要が出てきた。もう格好など気にせず、何とか随伴運動を駆使してでも言葉を出そうと考えた。そこで思いついたのは、黒板に字を書きながら言葉を出す方法であった。黒板を向いているので生徒には表情がわからないし、字を書く弾みで言葉を出しやすいと考えた。その他にも、足踏みで弾みをつける方法もできそうだと考えた。これらの方法を駆使して、なんとか言葉を出してやらなければと気を引き締めた。
ついに教育実習の日が来た。学校までの道のりは、不安でいっぱいで言葉が出るかどうかばかり考えていた。初めに実習生の自己紹介とホームルームの担当の発表があった。実習生は、卒業生と地元の学生とが半々であった。卒業生の中でも、同級生で顔見知りなのは2、3人だけであった。そこで、自己紹介ではどもりのことは言わなかった。ホームルームの担当は、高校3年時の担任の先生のクラスで、そのクラスでは授業を行わないことから、先生の配慮が感じられた。他の実習生は、自分が授業を行うクラスのホームルーム担当であった。ホームルーム、授業を担当するクラスともに、最初の自己紹介で自分のどもりのことを話して、迷惑をかけるかもしれないが、精一杯やるつもりであることを伝えた。まず指導教官の授業参観を行い、その後に授業実習を行うことになった。最初の授業では、立往生して時間を使うことなく予定通りのところまで進行することにだけ注意して、考えていた随伴運動を駆使して行った。しかしながら、予定の所までは進めなかった。どもりで立往生したわけではなく、初めてなので時間配分がうまく出来なかったのであった。それでも、なんとか終えることができたので少しホッとした。もちろん、詰まるところはあったが、どうしようもなく言葉が出てこなくなることはなかった。次に同じ内容の授業を別のクラスで行うことになったので、前回の失敗を踏まえて授業を行ったのであるが、やはり自分の思うようにはいかなかった。何よりも立往生しないことを第一に考えて授業を進めたのであるが、いろいろな面で余裕がなかったと思う。それでも、どもりに苦労して何とか言葉を出すためにいろいろ試した随伴運動が、ここで役に立ったことに安心した。その後の授業も同様に、立往生しないようにだけ注意してなんとか言葉を出すことだけに集中した。2週間の教育実習の最後に、他の実習生の授業を見学する機会があったが、生徒の反応を見ながら余裕を持って授業を進めていた。比較して自分の授業を振り返ると、生徒の様子を見る余裕がないまま一人で授業を進めていて、とても情けないと感じた。結局、授業実習は全部で11時限行った。満足できる授業はなかったが、自分が考えていたより立往生することなく、なんとか授業を終えることができたことはよかったと思う。授業内容については、生徒がどの程度理解したかは全くわからない。本来であれば、実習の最後に生徒に感想を書いてもらったりするのであるが、私の場合は怖くてとてもできなかった。結局、私の授業を生徒がどう思っていたかはわからないままである。
教育実習は教員免許を取るためだけで、教師にはならないと決めていたのであるが、終えた後には、教師もなかなか面白い職業だと感じるまでになった。一方で、後悔したことも多々あった。ホームルームで先生より、大学生活について話してほしいと振られて、何を言っていいかわからず、しどろもどろになってしまったことがあった。現在であれば、そのような場合に言うことをすぐに考え付くことができるが、当時は話す経験を積んでいないことから、何を話していいか思い付かなかった。どもらないようにすることに精いっぱいで、話す経験が不足していたと思う。
教育実習日誌を読み返してみると、時間配分が思うとおりに出来ないことと、生徒が理解できたかどうか不安なことを多く書いていた。特に、予想外の質問があった時にパニックになってしまい、その後何をしているかわからなくなっていた事があったようである。先生からの指摘に、「黒板の方ばかり見ている」と「板書と話すのを別々にしたほうがよい」ということがあったが、これは仕方がないことと思っている。ホームルームでの大学生活の話も、生徒は興味を持って聞いているので、話せば必ず乗って来てくれると指摘されていた。きっと、いい話が出来ていれば、生徒の方から話しかけられることもあったのではないだろうか。どもりのことに関しては、「話し方での時間のロスを他のどこかで取り戻すことに考慮すべきである」との指摘があったが、もっともだと思う。
私の大学時代は、どもりの症状がひどいために、サークルにも入らず、英語の授業で英訳の順番が来る日に休んだりするなど、逃げることがほとんどであった。そのような中で教育実習を曲がりなりにもやり抜いたということは奇跡に近いことである。吃音教室に来て初めて「逃げない」ということを聞いたのであるが、自分にはとてもむずかしいことだと思った。しかし振り返ってみれば、教育実習で「逃げない」ことを実践していたことになる。この経験が、現在の自分を創る基礎となっているのかもしれない
【作者感想】
今回久しぶりに文学賞に応募しました。応募しようと思った動機は「吃音を生きるU」に自分の文章が載っていないことでした。残念であるとともに、自分の経験を文章に残していく必要性を感じました。題材を何にするかを考えたときに、吃音症状が重かった学生時代に、教育実習をやっていたことを思い出しました。このことは他の人にはほとんど話していませんでした。自分としては、とても満足できない出来であったがゆえに封印していたように思います。私の吃音症状は、吃音教室と出会ったことで以前と比べて軽くなっているのですが、その理由は逃げない場面を増やして頑張ったことであると思っていました。しかし、今回この経験を文章にしたことで、以前も逃げないで頑張った場面があったことがわかりました。振り返ると、あの時期によくやったなという印象があります。この経験があったからこそ、吃音教室と出会ってからの自分があるのだと理解できました。
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2014年度 優秀賞
東 京
西村 芳和
1970年 夏 東京
炎天下 ギラギラする日差しの中
青年たちは ドクドクと汗を流し
土まみれ 建築現場の仕事に励んだ
真っ黒に日焼けした顔
白い歯だけがやけに目立っていた
わずかな報酬のすべては カンパ金だ
全国の拠点を作る
全国の吃音者たちの強い強い支えとなる拠点を作る
青年たちの 言葉はどもっていても
青年たちの 目はどもっていなかった
青年たちの 行動はどもっていなかった
人の触れ合わないスクランブル交差点
東京砂漠
その東京のど真ん中に
青年たちの熱い熱い情熱の雫(しずく)が滴った
この時 青年たちは
この雫(しずく)が やがて
日本全国を 世界を潤す雫(しずく)であることを
知らなかった
1976年5月 東京
青年たちは 声高らかに謳(うた)い上げた
「吃音者宣言」
魂の底からの美しい叫びの詩(うた)
涙を流すことさえできない
深い苦悩を知った人の美しい詩(うた)
確かな行動と議論を尽くし切った美しい詩(うた)
その 東京の空に 星屑があふれ
青年たちの魂の詩(うた)に
星々は惜しげもなく 美しい喜びの涙を流した
【作者感想】
「東京」の入賞、とってもうれしく思っています。実はこの夏、たいまつ社刊の『吃音者宣言』を再読しました。考えてみると、再読した本ってそんなにありません。再読であるにもかかわらず、夢中になって読んでいる自分がありました。今一度原点に立ち返って「吃音」を考えてみたかったのかもしれません。「東京」の詩は、そのインパクトが書かせた詩です。真正面から吃音に体当たりする、こんなに純粋で純心で行動力のある青年たちに、本当に感銘を受けました。この青年たちと共に、今回の入賞を喜び合いたいと思います。
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