2012年度 最優秀賞
あるがままに
南 泰成
私の人生は吃音の悩みが常につきまとっていた。
学生時代は、国語の時間の本読み、人前での発表、自己紹介、電話などことばを発しなくてはならないあらゆる場面が恐怖だった。それらの場面では、自分の言いたいことを言おうとしてもひどくどもって声が出ず、ひたすら口をパクパク動かして足掻くことが頻繁にあった。自分がどもったせいで沈黙が流れたときの周りの冷たい視線やクスクスと笑う声が苦痛でたまらなかった。どもっている自分の姿は、ものすごくかっこ悪いものだと感じた。
どもりたくない、他人に自分のどもっている姿を見られたくないという一心で、自然とどもりやすいことばを避け、似た意味を持つ別のことばに言い換えるようになっていた。しかし、自分の名前を名乗るときや国語の本読みなど、ことばを言い換えられない場面ではどうしようもなかった。どもったら馬鹿にされて周囲から嫌われる、どもりはいけないものだと思った私は、人と接する場面をなるべく避けるようになった。
どうして自分ひとりだけがまともにスラスラ話せないのだろうか。当たり前のことができないことが悔しくて仕方がなかった。自分の苦しみを分かってくれる人はいないだろうと、仲の良い友人にさえどもりを打ち明けることはできなかった。常に孤独を感じていた。もしどもりが治ればなんでもうまくいくに違いないと常に思っていた。
私の人生の中で最も辛かった経験は、大学3回生の冬頃から始めた就職活動だ。中学生の頃からあこがれていたプログラマーの仕事に就きたかった私は、主にIT企業の求人を中心に面接の応募をした。コンピューターが好きなことだけでなく、あまり人と接する機会が少ない仕事だと思っていたからだ。しかし、就職活動で人と話す場面は当然避けられない。プログラマーの仕事でもある程度のコミュニケーションスキルは必要であった。やはり吃音が大きな壁となった。
会社説明会や面接を受けるために企業を訪問し、企業の受付の前に置いてある受話器で名前や学校名を伝える場面が苦手だった。名前を言おうとしてもことばがすぐに出ず、ひたすら沈黙が続くことが何回もあった。時には、立ち往生している私が心配になって、面接担当者が受付まで来てくれたこともある。自分の名前すらろくに言えないことは採用選考において絶対にマイナス評価になるだろうとため息をつくばかりだった。
本番の面接や集団討論でもさんざんな結果であった。自分の人生が決まるかもしれない独特な緊張感が漂う空気のせいもあったのか、自己紹介や志望動機などを伝える場面ではほとんどまともに話すことができなかった。どもってはいけないと必死にことばを言い換えて話すことを試みたが、却って意味が伝わりにくくなってしまった。面接中にかかわらず、これ以上どもりたくない、早く帰りたいと思うことさえもあった。ほとんどの採用担当者が「緊張しないで、リラックスしてゆっくり話して下さい」と言うのだが、そんなことができる余裕はなかった。もちろん自分がどもりだとその場では決して言えなかった。
面接が終わった後の帰り道はいつもひどく落ち込んだ。何日もずっと落ち込み続けていたこともあった。「こんなにどもっていては社会人としては失格だ。就職なんてできるわけがない。どうして自分だけ吃音を持って生まれてきたのだろうか。このまま吃音が治らなかったら自分の人生はお先真っ暗だ」と自分自身を悲観し続けた。悔しさと情けなさでいっぱいだった。
当然のことながら、何度面接を受けても不採用が続いた。一次面接を通過したことすら一度もなかった。次第に面接に行くことに恐怖を感じた。面接の前夜はどもることが心配でほとんど寝られないこともあった。吃音を治したい、面接でどもらずにうまく話したいという一心で何度も自己紹介などの練習を繰り返したが、改善することはなかった。
結局、約40社以上の選考で不採用になり、大学4回生の秋頃には就職活動を辞めてしまった。このまま継続していても時間の無駄だと思ったからだ。家に引きこもるようになった。
同級生が次々と就職していく中で、就職もせずに大学を卒業し無職になってしまった。このまま家に引きこもっていては何も始まらない。ここまで育ててくれた両親にも申し訳ない。なんとかして吃音を克服して就職したいと思った。そこで、以前インターネットで吃音のことを調べていて知っていた大阪吃音教室の例会へ参加することを決心した。2011年4月のことであった。
吃音教室に参加して、自分以外のどもる人に初めて会うことができた。世の中にこれだけたくさんのどもる人がいることに驚いた。自分と同じ悩みを持つ仲間にやっと出会えてうれしかった。皆自分と同じく吃音を持っているにも関わらず、どもることを気にせず、明るく笑顔で話す人ばかりだった。そして、ほとんどの人が社会人として、吃音とつきあいながらも立派に働いていることを知った。自分も早く仕事を探さなければいけないと思った。もっと早くここに来ていたらよかったと少し後悔したが、自分の吃音を見つめ直すことができる良いきっかけになったと希望がわいた。すぐに就職活動を再開することを決めた。
学生時代に新卒として就職できず、社会人未経験だったため、限られた企業にしか面接の応募はできなかったが、何ヶ月かかってもあきらめずにがんばってみようと決心した。もちろん少しでも吃音を改善したい、それがだめなら吃音を受け入れたいという思いから吃音教室へも通い続けた。
吃音教室に何ヶ月も毎週通い続け、毎回違ういろいろなテーマの講座を受けていくうちに、少しずつだが、自分の吃音に対しての意識が変化したことを実感した。その中でも「森田療法に学ぶ」の講座は大きな感銘を受けた。森田療法の考え方が、吃音に絡めて説明され、不安や恐怖などの対処が体験を通して語られ、話し合っていく。吃音に置き換えれば、「自分がどもるという事実をあるがままに受け入れること」である。
私は今までどもる自分自身が嫌だった。どもることは恥ずべきことだと考え、必死にことばを言い換えてごまかしたり、人と接することから逃げたりするばかりであった。しかし、森田療法の講座を受けて、「吃音は決して悲観すべきものでも恥ずべきことでもない」、「吃音が治ることはないが、それを受け入れ、自信を持って堂々と話したらいい」と学んだ。この考え方にとても勇気づけられた。吃音の改善を目指すのではなく、吃音を受け入れていくことを決意した。
大阪吃音教室の森田療法の講座から数ヶ月が経過し、気がついたら吃音を少しずつ受け入れられていることを実感した。人前でどもることに対してもほとんど抵抗がなくなり、どもってもあまり落ち込むことも少なくなった。以前の自分ではあり得ないことだ。
その後の就職活動では、履歴書にあらかじめ自分がどもることを書いて面接官に伝えた。面接ではいくらひどくどもっても堂々と自分のことばで熱意をもって話すことを心がけた。それが功を奏したのか現在の会社に就職することができた。入社日の自己紹介では自分はどもることをどもりながらも隠さずに公表できた。幸い吃音を理解してくれる同僚らにも恵まれ、現在一人前のプログラマーになるため日々修行中である。
どもりを受け入れる前と後では症状は一切変化していないが、会話をすることが本当に楽になった。どもりを隠すことなく、堂々とどもることができる今の自分こそ本当の自分なのだと思う。
あのとき、大阪吃音教室へ通う決心ができて本当によかった。吃音教室で学んだすべての講座とかけがえのない仲間に出会えたことは私の財産である。
どもりだからといってできないことは何ひとつないと思う。これからは、何事も逃げずチャレンジしたい。吃音と上手に共存し、あるがままの人生を歩むつもりだ。
【作者感想】
まさか私の作品が最優秀賞に選ばれるなんて夢にも思っていませんでした。今回書いた作品に今までの自分の吃音への思いを全て出し切ることができました。普段文章を書く機会が少ないため、何日も徹夜してすごく時間がかかりましたが、書き終わって本当にすっきりした気分です。今は自分がどもりで良かったとさえ思います。あれだけ悩んでいて孤独だった私が吃音を受け入れられたのも、吃音教室とたくさんのどもる仲間に出会えたからです。今後も教室に通い続け吃音についての理解をより深めたいです。また、これからは何事も逃げずに前向きに取り組み、楽しい人生を過ごしたいです。素晴らしい賞を頂き本当にありがとうございました。機会があれば是非また応募させていただきます。
2012年度受賞全作品ページ
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2012年度 優秀賞
吃音受容と他力の信について
村田 朝雅(むらた あさか)
天王寺にある"一願不動尊"という不動明王像の傍に、「あなたの願いを一つだけ叶えます」と書かれている。私にとっての一願は何なのだろう。本当に大切なものが何であるのか、何一つわからぬのが今の私だ。
吃音も、私にとってわからぬものの一つだ。治すための行動は、どのようなものであれ、得体の知れぬ吃音の前に砕け散り、吃音を自分のものとして受け取らない限り、どのような手段をもってしても私の目を開かせようとする。
引っ込み思案で人見知り、いつも添え物のような存在で、欲求不満の塊だった。中学2年生のとき、友人関係の改善から、吃音症状が軽くなった私は、過去の自分と重ね合わせて、吃音である自分は終わった、どもりから開放されたと思い込んだ。依然として言いづらい言葉や、言葉が出ないなど、難発の症状はあったが、吃音と関係の切れたかのようなそぶりを、以降30年近く続けた。その間、吃音の情報は決して目や耳にするまいと決めていた。ひとたび吃音と対決したら、確実に負ける。それに勝てる精神の力量など、私にはなかったからだ。
心の影におびえて吃音に萎縮している自分を隠すために、ひたすら強がった。「私はどもりではない、なんでもできる、言えないものなんてない」と、無鉄砲な勢いで、いろんなことに挑戦した気になっていた。人前ではあまりどもらなかった故に、妙な自信を持っていたのだと思う。恐怖に立ち向かわず、恐怖を見ないようにしていただけで、能力以上に努力をしたり、何かを成し遂げた訳でもなく、日々なんとなく過ごして愚痴の材料を作るばかりだった。その頃、吃音受容からはもっとも遠い極点に存在していた、思いあがった、いけすかない奴だった。
吃音はそのような者を黙ってはおかない。40歳を過ぎた頃、名前を言えなくなるのではないかと、ある日突然、前触れもなく考えるようになった。予期不安を消すために、「どもりとは関係のない自分」が、吃音を認めない状態で、治すための思案をその日から重ねた。恐怖心を除くには、心の強さを得るにはどうしたらいいのか。答えを求めるために、それまで手に取ることさえ拒んでいた、あらゆる自己啓発本を読み漁り、気功やヨガ、自己催眠など、様々な自力の策を模索し続けた。
その努力の結果、一時的な症状の軽減はみられても、自分の心を、ねじふせねじふせて、成り立つ策ばかりだ。心を解放させない状態を自分に強いていくうち、言葉全てに過敏になって、一日中頭の中で言える言えないを判定し始めた。水を入れた風船がはちきれる寸前のような感覚が身体に充満し、出したいのに出してはならぬ、否定に否定を重ねて心の均衡点を完全に見失っていった。模索を始めて1年が経つ頃には、吃音症状はよくなるどころか、言葉を発すること自体への恐怖、外に出ることや、他人への恐怖にまで広がっていった。これほどの短期間に心はここまで弱るものかと半ば感心すると共に、吃音を治すことをあきらめたら何か突破できるかもしれないと薄々感じながら、納得できる吃音克服の答えをまだ自力で探そうとしていた。
その頃、学生時代に講義を受けていた、梯 實圓(かけはし じつえん)氏の講演録を偶然に聞く機会があった。
「自分に嘘をつき、自分を飾らなければ立っていけないような、そんな場所に生きてる訳じゃなくてね、あるがまんまを見通された如来さま、その如来さまのお手の中に生きさして頂いている。だから決して自分を飾る必要がない。また、ええかっこする必要が無い」
五木寛之氏は「真宗は上を向いて光を見ようとするのではなく、下を向いてうなだれているときに私を照らす光明の影を観て光を発見する。これが信心である」と言う。「ああ、そうだったのか、そうでございましたか」と、自ずと頭が垂れていく思いだった。
学生時代、信心がどうにも理解できず、恐らく一生かかわりのないものと決めつけていたが、どもりが私を真宗にもう一度出遭わせ、どもるまんまが落ち着く私であることを気づかせてくれた。同じ時期、「どもりは治らない」と断言しながら異様な活気を感じた大阪吃音教室のホームページをふと思い出し、サイト内の全てのコンテンツを読んで、「今行かずにいつ行くんだ」と大きなものに背中を押されるように、私は大阪吃音教室に参加することになった。
吃音受容、ありのままの自分を受け入れること、吃音を治そうとしないこと、これらは簡単に領解できるようで、非常に深い領域を持っている言葉なので、大変誤解を受けやすい一面がある。これらの言葉を、うつむいたあきらめや放棄と捉えると全てが崩れる。意識を超えた、答えや方程式を持たない言葉ゆえに、そう思おうとしても、自分の中の何かが反発して、「わかっちゃいるけどどもるのはやっぱり怖い」の心情が、ここぞという時にいつもこの心情が登場する。
吃音教室の先輩のみなさんは、「知らず知らずに」「いつのまにか」「どもってもいいんだと思えるようになった」と話して下さった。「しらずしらず」という言葉は、自力のはからいではないことを示す。また、「治そうとしないでおこう」「どもってもいいんだ」と"始めに"思ったのではない。「しらずしらず」は、自力のはからいではない力によって引き出された精神的な転換だろう。言葉をわかっているのと、事柄をわかっているのとは別で、ただただすごい世界なのだろうと想像するばかりだ。
「他力と申し候ふは、とかくのはからひなきを申し候ふなり」(「親鸞聖人御消息」783)。親鸞は他力とは「他(ほか)の力」ではなく、私の計らいをまじえないということを他力と言われている。更にいうと、本願力回向のことで、如来の利他力(りたりき)、生きとし生けるものを救う力を表している。姿、形のない、誰も見たことのないものであるがゆえに、その力を信じてみよと言われて素直に信じられる人がどれほどおられるだろうか。
「自分の納得出来ないことは受け容れないというのは人間の常なんですがね。人間ちゅうのはそうはいきませんで。納得のいかん事でも受け入れにゃしゃあないとこまで追いつめられますがね。それをね、そんなしゃあないさかい受け入れる、そうじゃなくてね。仏様の仰せをまことと受け容れる。如来さまの仰ることに嘘はない。納得しないわしが悪いんじゃ、わからんのはわしがあほやからや、如来さまの仰ることがほんまや、と仰せをすっと素直に、受け容れると、その受け容れたみ教えが新しい世界を開いて下さるんですね。それが信心ということです」
こう梯氏が言われる新しい世界とは、あらゆるものへの視点、見方が変わること、気づきと言ってもよいかもしれない。受け容れたことで、人生を見る目が他力によって少しずつ変えられていく。他力とは、宇宙を生み出すような力、人間の言葉などでは表現しきれないほど大きなスケールのもの、人間の知や想像力では到底理解しえないものだろう。その大きな力が「ある」。「どもってもいいんだ」と思えた方にも、思っていない方にも届けられている、と私は信じている。
「どもろうと覚悟する、決意するその時、その人の生き方は豊かになる(ことが決定する)」と伊藤伸二さんは例会の中で話してくださった。これは真宗の獲信(ぎゃくしん=信心を得る)と限りなく等しいものであった。信心とは疑わないこと、覚悟する=疑わずそれが本当だと受け容れること。どもるもどもらないも一望のもとに見渡す目がそこにあるのだろう。決意から先、その時どもるかどもらないか、は他力におまかせするしかない。吃音をコントロールする力は私にはない。
自分の心は今もって毎日揺れている。「どもってしまえ」と考えた数時間後に「やっぱりどもるのは怖い」、次の日にはまた「もう怖くない」次の日にはまた「怖い」この繰り返しだ。なんと情けない、愚かな存在かと辟易する。他力におまかせするだけでは、努力を怠るすすめにも聞こえてしまうのだが、心は弱くとも、志をはげましていくことはできる。他力への信を、自力の努力で絶え間なく持続させるのだ。毎回の大阪吃音教室の講座は、私に必要な志のはげましそのものだった。
「言い換えが逃げじゃない」だなんて、「どもってはいけない場面など一つもない」だなんて、「どもれ」だなんて。成功や出来事に囚われてそこから抜け出せない、身動きできないでいる現実世界での私に、見事なパンチの連続だった。
教室内でも教室外でも、あちらでもこちらでもどもる、どもる、どもる。どもるシャワーを浴び続けていると、自然慣れてくる。そのうちに、「イカしてるじゃん」と思えてくるのだ。そして、まさに「知らず知らずに」皆さんの前ではどもるかどうかを考えずに話している自分に最近、気づく。これがたまらなく気持ちがよいものだった。自分に嘘をつかない心地よさにハッとする。
吃音受容とは難解なものだと考えていた。突然、或いは、短い時間のうちに「起こす」ものだと考えていたからだ。自分がわからないから、心がけが足りないから受容できないと考えると、きわどい所で踏み外すのかもしれない。主客が逆だったのだと今更ながら気づくのだ。自分で自分が受容しているか、判断しづらいところではあるのだが、無理をしない、ええかっこしない自分が一番落ち着く世界であることを、気づかせてもらった。私が私の力で気づいたのではなく、何かわからぬけれど、とてもつもなく大きな力、他力によって目を開かせてもらったのだと考えている。
人生で最も大切なもの、一願が何であるのか、わかったつもりでしたり顔をして、結局何一つわかっちゃいなかった。「どもりが治ること」では断じてない。その世界にとどまっていては、本当の一願は雲に隠れたままなのだろう。比べ物にならぬほど、大きなものがあるはず。一生かかっても解けない問題を与えられたのは、悪い気分ではない。やっと一願を考える開始地点に指がさしかかったのが、今の私なのだ。
【作者感想】
もう本当に恥ずかしながら・・としか申し上げようがありません。応募はするけれども、宗教に関する話題や、それを文字に表わすことは、半ばタブーに近いものがあると考えていましたので、「それならば応募しなければいいじゃないの」「いやでも」のような感じで、ひとりで夫婦喧嘩しているような少しの葛藤はあったのですが、今の自分には、書くのならばこのテーマしか書けないと思っていました。書いていた時期は、どもりに対する意識の変化が特に激しい時期でして、その日に書いたことが次の日には嘘になっている、その次の日にはまた心境が大きく変わって、今読むと「揺れに揺れて動いてるなあ」と感じて、ああもう恥ずかしい・・。でも賞を頂いてこれは本当に素直に嬉しいです。みなさんに与えて頂いた賞です。この歳になって、こんな素晴らしい仲間との出逢いがあるとは、やってくれるぜ本願力。心からお礼申し上げます。みなさま本当にありがとうございました。
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2012年度 優秀賞
甘えの構造 祖母に捧げるバラード
丹 佳子(たん かこ)
母が小学校の教師をしていて忙しかったため、私はこの母の母である祖母に育てられたといっていい。祖母は、戦後は落ちぶれたが大正の時代はお金持ちのお嬢様だったプライドをずっと引きずっていたところがあり、世間体を非常に気にする人であった。「人に笑われるようなことをしたらいかん」というのが口癖で、特に私には「あんたは先生の子だから、あんたが恥ずかしいことをしたら、あんたの母さんの評判も悪くなるからね」とよく言っていた。だから、私の成績が悪かったら教師をしている母が恥をかくと思っていたようで、祖母は私に勉強を叩きこんだ。学校から帰っても、友達と遊びに行くことはほとんどなかった。たまに誘われても、「絶対に4時までには帰ってきなさい。帰ってこなかったら心配し過ぎて、ばあちゃん死んでしまうかもしれん」と、半ば脅しとも受け取れるような文句で私を送り出すものだから、ほかの友達が「もう帰るの、うちの母さんはまだいいって言ってるよ」という時間に、帰らなければならなかった。実際5時を過ぎて遊んでいたら、本当に迎えにきたこともある。「うちのばあちゃんが心配するから」と、子ども心に恥ずかしい言い訳をしながら、私は遊び仲間からぬけ出した。しかし、その実はほっとしていた。勉強の方は祖母にやらされたが、外に出たら危ないという理由で運動をしてこなかった私は、運動はからきしだった。鬼ごっこもドッジボールも苦手だった。そして、勝ち負けのついてしまうトランプもオセロも好きではなかった。高学年になるにつれ、祖母の心配性がうっとうしくなってはきたが、「うちのばあちゃんが心配するから」は、常に私にとっての免罪符だった。
「先生の子だから、しっかりしなくてはいけない」というのが、いつしか私の中で呪縛のようなものになっていたのだろう。クラスでは成績のいいまじめな生徒であり、臨海学校や修学旅行では班長になり、年に一度は学級委員を務めた。しかし、そういうリーダーの役をするにはしたが、みんなをまとめてなにかをうまくやったという記憶はない。臨海学校ではオリエンテーリングで迷って、班の子から文句を言われ、キャンプファイアーの出し物では、みんなが出るのを嫌がったので、先生に相談したら、「班長がなんとかしなさい」ということになり、結局私一人が歌を歌ってその場をごまかした。後ろで大勢にまぎれて、私を見て笑っている班の子がうらやましかった。それでも「長」の付く仕事を引き受け続けたのは、もう一つ理由がある。姉に対するプライドである。姉は祖母の言うことなぞ聞かず、子どものころから外に遊びに行き、友達も男女問わず大勢いた。運動神経もよく、水泳やバスケットの選手にもなり、学級委員や部活のキャプテンにもなっていた。姉がそうなのだから、祖母も母も私にそれを期待すると思った。運動のできない分、他のところでがんばらないといけないというのは、脅迫観念に近いものだったのかもしれない。でも、しんどい……弱い人間だったら、誰かに甘えても許されるのか、そんなことを考えた。それだけが原因というわけではないのだろうが、小学校高学年から中学校に入ったころ、私の吃音は始まった。
それまで、班長や学級委員を務めていた私は焦った。普段の発表のときにも、司会のときにもどもり、その度に真っ赤になってうつむく私を見て、みんなはくすくす笑った。意地悪な子は、休み時間に私にわざとどもって話しかけてきて、それを見てみんなはまた大笑いした。わかると思って手を上げた問題で、いざ答えを言おうとすると最初の一音が出ず、困って「忘れました」と言ったら、先生に「からかっているのか」と怒られ、しばらく立たされたこともあった。吃音がひどくなってからの学生生活は悲惨なことが多かった。
それでも、一つほっとしていたことがある。「これで弱い人間と思ってもらえる」これで私は甘えられる。実際、どもるからグループの発表のとき私を外してほしいと言ったら、外してくれた。どもるから、スピーチはできないといったら、他の子がしてくれた。どもるから、人前で話をしなければならない先生にはなれないと言ったら、教師になることを期待していた母はしょうがないと言ってくれた。吃音が私の免罪符になった。どもる度に落ち込んだり、恥ずかしい思いをしたりはしたが、吃音がない人生はもっと恐ろしいと思った。
そんなこんなで吃音を理由にいろいろ逃げまくったが、やがて逃げきれないときがやってきた。就職活動である。ときはバブルの崩壊直後の就職氷河期で、そんなときに面接で名前からつっかえて言えない、話すことから極力逃げ、人前でしゃべってこなかったので理路整然にしゃべれないような人間を拾ってくれる会社はなかった。「そんなにどもって大変ですね」と言ってくれた面接官もいたが、「どもってかわいそうだから拾ってあげる」というところはなかった。好きな語学に未練があったため、なんとなく文系にいたのだが、何の資格もとっていなかった。公務員試験では面接で全て落ちた。吃音に甘えた私は、自分を全く磨いてこなかったため、個として誰かに向かい合うことのできない未熟者だということが露呈したのだ。全部に落ちたとき、私は自分にも吃音であることにも絶望した。
結局、母のコネで、母の知り合いが経営している小さい会社に就職できた。このときに「どもるんだから、うつむいて小さくなって生きていけばいい、傷つかなくてすむように」と思った。実際、最初のころは、小さくなって、何かあったら「すみません、すみません」と言うばかりだった。でも、この会社は小さかったけれども勢いのある人が多く、「失敗するのはいいことだ。失敗してもそこから学べばいい」という社風があった。朝会の当番でどもっても、電話でどもっても、「ドンマイ、ドンマイ」と言ってくれる人もいた。そんな中で私は、ここで必要とされる人間になりたいと思うようになっていた。設計会社だったので、トレースから簡単な機械設計まで教えてもらい、資格もいくつかとれた。自分の図面について現場の方と話をしなければならないときは、どもっても逃げずに話した。そして、給料を貯めて、車を買うこともできた。休みの日に友達と遠くまでドライブに行ったときに、自由を感じた。もう祖母は追って来られない。
このあと10年しないうちに会社は不景気の中で倒産した。しかし、今の仕事の面接で、以前の仕事で自分が役に立つ人間だったことをどもりながらではあったが主張すると、採用してもらえた。ここで出会った方が、大阪吃音教室を紹介してくれた。どもるのは仕方がないと思ってはいたが、もしかしたら治るかもと思って参加した私は、大阪吃音教室の「吃音と共に生きる」の理念にすっかり共感することになった。今もどもる度に困ったなと思うこともあるが、生きるのは遥かに楽になった。
「どもるんだから、うつむいて小さくなって生きて行けばいい、傷つかなくてすむように」
こう思いながらも、うつむいたままでも小さくなったままでもいられなかったのは何故だろう。傷ついてもあきらめきれなかったものは何だろう。どもるということで、自分の全てが否定されるわけではないのは、どこかでわかっていたからか。では、誰かの役に立つ人間になりたいと思ったことや自由へのあこがれが、前を向いて生きようという原動力になったからだろうか。でも、誰かの役に立つ人間になりたいのは、結局誰かに認められたり、ほめられたりしたいからで、甘えていることにならないか。自由にあこがれるのは、本当はもっと友達と遊びたかったことを引きずっているからか。いろいろ考えは巡るが、うつむいて、小さくなったままでいることがなかったのは、祖母がいつも身体にいい、おいしいものを作ってくれ、慈しんでくれ、守っていてくれていたおかげかもしれないと、最近思うようになってきた。
小学校高学年になってくると、家に祖母といるよりは、一緒に音楽を聞いたり好きな漫画や歌手について語り合ったりするような友達との時間の方が好きになっていたが、祖母の心配性は私にとっては凶器で、友達とは自由に遊べなかった。だから、祖母に甘えながら、一方で殺したいほど呪わしくも思ったこともあった。でも、落ち込んだ臨海学校の夜、瞼を閉じたとき浮かんだのは、祖母の笑顔だった。就職活動に失敗し絶望した後、死にたいと思い何度か自傷行為をしながらも最終に至れなかったのは、私が死んだら悲しむかなあと思う人達のことが思い浮かんだからだが、このとき祖母の悲しそうな顔が脳裏に浮かんだ。祖母は私に愛情をいっぱい与えてくれ、私はそんな祖母に甘えて育ったのだと、つくづく思う。
これからも、集団の中で生き残るために、弱いフリをすることはあるだろう。でも、吃音に甘えることはもうない。今、吃音は私にとって、祖母の思い出と共に私を形作っている私の大事な核なのである。
【作者感想】
弓道の先生に「あなたは自分に甘いから(上達しないんだ)」と言われたことが、これを書く契機になりました。最初吃音と甘えについてだけ書いていたのですが、気がつけば祖母のことを書いていました。祖母は私がどもると「どんぐり食べたんじゃろ」としか言わず吃音の理解者ではなかったのですが、今回それでも私は祖母に愛され守られて大きくなったんだと改めて気づくことができました。賞と書く機会をいただけたことに感謝します。
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