2011年度 最優秀賞
吃りの遺伝子
丹 佳子(たん かこ)
婚活中である。40オンナに世間の目はそう温かくないが、まだ婚活中である。確かに美人てもんでもない。昔から「いいお母さんになりそう」とか「雰囲気がいいですね」とは言われてきたが、「きれいですね」なんてことは言われた試しがない。
中学のときから、私は吃るようになった。それに気付いた父は「うちの家は代々吃りだから…」とぽつりと言った。実際、父も吃りである。そして、うちのご先祖様も吃りだった。名を丹(たん)任部(にんぶ)の守(かみ)という。豊臣秀吉の軍が四国征伐で攻めてきた際、任部の守の軍はこれを迎え撃ったそうだ。戦いは長時間におよんだ。勝敗がつかないまま夕刻近くになったとき、敵方の大将が任部の守に打ちかかってきた。暗闇がせまってくる中、任部の守の家臣が加勢にきたが、大将二人は似たような甲冑を着けていたため、どちらが任部の守かわからない。そこで家臣は「どちらが丹任部の守様か」と問うのだが、任部の守は吃りであったため、自分の名前がとっさに言えず、その間に相手方が「我こそが丹任部の守である」と言ったため、誤って殺されたという。そういう昔話とその霊を祭るための神社が残っているくらいだから、本当に吃りだったのだろう。
それまで、国語の朗読を得意としていた私は、吃る自分を受け入れることが全くできなかった。授業中に先生に当てられて、答えがわかっているのに、最初の音がでなくて「わかりません」と言うのはつらかった。また、一生懸命答えを言おうとして真っ赤になっているのを、周りの子たちに笑われるのもつらかった。吃っている自分は本当の自分ではないと思った。最初のころは、そのうちすぐ元の吃っていない本当の自分に戻るにちがいないという期待をしていた。しかし、それが絶望に変わったころ、一つの誓いが心の中で芽吹いた。吃りに対して復讐である。「うちが吃りの家系であるなら、私が吃りの遺伝子を断ち切ってやる」と。
自分の吃っている年月が、吃らなかった年月を追い越した20代後半くらいから、私は吃りは自分が背負うべき人生の重荷なのだと考えるようになり、あきらめと自虐に浸るようになっていた。進学のとき一番行きたかった外国語を学ぶ道に行けなかったのも、就職活動の面接で失敗し、希望したところに就職できなかったのも、なんとか就職した会社で電話の取り次ぎや朝礼当番になったときの司会がうまくできないのも、吃りなんだからしょうがないと、なげやりな気持ちになっていた。教師だった母は、私も教師になることを期待していたようだった。しかし、私は吃りなのに、人前で話すことが仕事の教師になんかなれるはずはないと思った。期待に添えないこともつらかった。
現在はそれほどでもないが、このころの私は、言葉を出そうとする度、最初の音が喉の奥につっかえることが多かった。最初つっかえるとその後は、どんなに音をしぼりだそうとしても全く音がでなかった。違う音を探そうと、言い換えの言葉を探すのだが、あわてているから余計でてこない。顔を真っ赤にして、唇だけパクパクさせている沈黙の時間は、悲しくてみじめだった。その度、自分はやっぱりだめな人間なんだと思った。周りの人たちが、すらすらと話していることがうらやましかった。吃りさえなければ、自分の人生はもっといいものになっていたはずなのに、と自分の運命を恨んだ。だからそんなときは「吃りの遺伝子を断ち切ることが私の使命である」と思うようにしていた。そのとき私は吃りに対して復讐を完成させることができるのだから。
それでも、それなりに恋をし、恋人ができたこともある。が、彼の前で吃りの自分を見せるのは嫌だったから、必死で隠そうとしていた。また「もし生まれた子供が吃りだったら」と考えることは恐かった。彼は、結婚したら子供を持って温かい家庭をつくりたいという、ごく普通の夢を語ってくれた。どこかで吃りの遺伝子が「滅ぼされないぞ」と笑っているような声が聞こえた気がした。結局、私から別れを切り出した。
30歳のとき、大阪吃音教室に出会った。そこで、「吃りは遺伝しない」と教わった。なんとも拍子抜けをしたような気分になったのを今も覚えている。同時にやっぱりとも思った。吃りの遺伝子という呪縛を作って自分を縛っていただけ……自分の吃りから逃げるために、私はその言い訳として、「吃り」と「吃りの遺伝子」を使っていたと、どこかでは気づいていたのだ。だから、呪縛からの解放は、喜びではなく、今まで気づかないふりをしていたことに、向かいあわなければならないという苦しみをもたらした。面接で落とされ続けたのは、一度吃ってしまったら、落ち込んでしまって自信のなさそうな受け答えしかできなかったのが原因だということ、教師にならなかったのは、荒れるクラスを抑えるような力量は自分にはないことがわかっていたこと、外国語の道に進まなかったのは、一番好きなことで失敗したくなかったこと、恋人と別れたのは……子供のこともあるのだが、本当の原因はみじめな自分を一番好きな人に見せるのが嫌だったこと。心のどこかでうすうすは気づいていたが、「吃り」や「吃りの遺伝子」という言い訳を理由に、気づかないふりをし、努力もせず、ただただ逃げ出してきたことを認めなければならなかった。私は単なるプライドだけ高い臆病者のまぬけだったのだ。でも、伊藤さんや大阪吃音教室の仲間と関わるうちに、吃りを肯定することはできるようになっていた。「吃ってもいいんだ」と思えるようになったことで、生きることが楽になった。吃りの自分を受け入れることができるようになった。
実は、大学で外国語を学ぶ道からは逃げたが、結局どこかであきらめられず、20代のころは英字新聞で、吃ってもいいんだと思うようになった30の頃からは英会話教室で、地道に英語の勉強は続けていた。今は英語の指導助手として来ているアメリカ人に英語と日本語を交えながら弓道を教えている。昨年暮れにはアメリカの家にも招待されて、昔あこがれたホームスティを体験できた。努力してきたことに救われた気がした。
いつのまにか、私の心の中にあった憑きものの「吃りの遺伝子」は消えていた。今考えると莫迦げているのだが、つらかった10代、20代を生きる抜くためには、その存在は必要だったのかもしれない。今も吃ることはある。でも、楽に吃る方法を身につけたり、言い換えの語彙数を増やしたりしたことで、吃るからつらいということは少なくなった。今は吃りの自分を認めることができている。吃りのある人生をちゃんと生きたいと思う。もし、私に本当に「吃りの遺伝子」があって、それが我が子に遺伝してしまっても、今はそれを受け入れ、大丈夫だと言ってあげられるだろう。正しい知識も教えることができるし、吃りだからこそ深められる人生もあると言ってあげられるだろう。我が子……その前にパートナーを探さねば。これは努力だけではどうにもならないかもしれないが、今は前向きに、婚活、婚活! まあ、見つかっても見つからなくても、私の人生をちゃんと生きようという覚悟はできている
【作者感想】
大賞をいただきありがとうございました。ことば文学賞は、いつか応募して賞をいただけたらいいなと思っていたので、非常にうれしいです。
今までも何度か応募しようとしていたのですが書けなくて、今年こそはと思い、自分にしか書けないことってなんだろうと考えていたとき、吃りの遺伝子のことを思い出しました。でも、最初は、吃りの遺伝子は私の妄想の申し子なので、こんな恥ずかしいことは絶対誰にも死ぬまで言うまいと思って却下していました。
そんなとき、今度こそと思って付き合っていた人に手痛い振られ方をしてしまい、追い詰められたような心境の中、婚活に絡めて吃りの遺伝子のことをちょっと書いてみたら、だんだんその存在が膨張し始め、結局それを核にすることで、今までの思いや今の心情がうまくまとまったので、まあいいかと思い、そのまま応募してしまいました。あのとき振られなかったら、おそらくは永久に生まれなかった文章なので、今は振られたのもよかったのかなと思っています。
2011年度受賞全作品ページ
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2011年度 優秀賞
世界は、変わる
藤岡 千恵
「私、吃音のことは、もう誰にも言いたくない。誰にも言わないでお墓まで持っていくつもり。その方がラク。」
これは、2005年11月18日に、私が日記に書いていた言葉である。
日記には、当時の職場で何度かほんのちょっと吃り、内心とても焦っていたことや、当時の恋人にどもりだと気づかれたかどうかハラハラしていたことも綴られていた。その数ヵ月後に、私は大阪吃音教室を訪れることになる。
私と大阪吃音教室の最初の出会いは、1998年だった。
その時の私は保育士をしており、話す事の多い毎日で行き詰まっていた。吃音教室の存在は、かなり前から知っていた。伊藤さんの新聞記事を切り抜いて大切に持っていたからである。最初に吃音教室を訪れた時、これまでの(21年分の)思いがあふれ、自己紹介の時に号泣してしまった。そんな私を、伊藤さんをはじめ、参加していた仲間たちがあたたかく迎えてくれた。しかし、どもりを受け入れたくなかった私は次第に足が遠のき、7年ほどのブランクが空くことになる。
大阪吃音教室に通わなかった7年間、私はどもりをごまかして、なんとか生きてきた。保育士を辞め、デザインの仕事に就き、電話や来客対応、取引先でのお客さんとの会話など、相変わらず話すことからは逃げられなかった。時々、私の不自然な喋り方を指摘されたこともあったが、そのつど必死にごまかしてきた。そして、「私はこの先も、自分の吃音のことを誰にも言わずに死んでいくのだろう」と思っていた。だけど、私はだんだんと苦しくなっていた。どもりと自分は切っても切り離せず、どもりの問題は自分の核心の部分なのだろうと、うすうす感じていた。それでも、心療内科で処方された薬を飲んでいれば気分は楽になるのだと自分に言い聞かせていた。しかし、楽になるどころか、しんどい気持ちは一向に晴れなかった。そして「自分の核心部分に向き合わないままだと、私はこの先もずっとしんどいままで生きていくことになるだろう」と気がついた。その時、7年前に私を迎えてくれた仲間たちを思い出した。
7年のブランクを経て、再び大阪吃音教室を訪れた私は、その時も自己紹介で泣いた。どもりの苦しみを1人で抱えていたことは、やはりとてもつらかったのだと思う。仲間の前で、その思いを吐き出し、「あなたのこと覚えてるよ」「よく来たね」と迎えてもらい、私はどれほど心が救われたかわからない。
そして、本当にゆっくりしたスピードで、行きつ戻りつを繰り返し、私は変わりはじめたのだと思う。
吃る自分を認めたい。だけど人前で吃りたくない。教室にいる人たちのように私も、吃りながら明るく豊かに生きたい。でも、恐くて吃れない。
そんなことを繰り返し、私はとても時間がかかった。今のように、日常生活でも仕事の場面でも、当たり前のように吃り、仲間とともにどもりの話題で涙が出るほど笑えるようになるまでの道のりは決して簡単ではなかった。「自分は吃る人間なんだ」と認めることが必要なのだと、頭ではわかっていても、やはり恐かったのだ。教室を一歩出ると足がすくんでいた。そんな中で行きつ戻りつし、仲間の体験を聞き、吃音教室という温かい空間で、少しずつ私はどもりの症状が表に出るようになった。「どもりでも大丈夫」と頭ではわかっているだけの時は、いざ人前で吃る瞬間の恐さがどうしてもぬぐえなかった。だけど、恐いけれど、自分の世界を変えたくて、ほんの少し勇気を持ち、家族や友人の前、会社などで、吃る。「私のどもりがバレたら、関係が変わってしまうに違いない」と思っていた私は、少しずつ、どもりを小出しにしていく中で、「あれ? 私が吃っても、何にも変わらないんだ」と知り、さらにもう少し、吃る自分を出してみる。私が激しく吃ろうが、相手はちゃんと話を聞いてくれる。私を見下すどころか、一生懸命聞いてくれ、むしろこれまで以上に心が通うということを知る。そういう道のりだったと記憶している。
そして今、ふと過去を振り返ると、自分の世界がびっくりするくらい変わっていたことに気がついた。「あなたは、あなたのままでいい」の「あなたのまま」は「吃るあなたのまま」でもあるのだと思う。かつての私がそうであったように、人前で吃ること恐さに、どもりを隠して生きている人が、たくさんいると思う。だけど、どもりをコントロールしたり、相手に気づかれたかハラハラし、一分一秒たりとも気が抜けなかった世界から、吃る私のままでのびのびと生きる世界を知った今、私は「どもりを隠して生きていた頃の私には、もう戻れない」と感じている。
どもりを必死にごまかしていた頃の私は、それはそれで精一杯生きていたのだけど、ありのままの自分で生きる喜びを本当のところ知らなかった。ごまかし、取り繕い、そういう姿勢がしみついていたと思う。どもりと関わる姿が、私の生き方そのものだったのではないかと今は思う。
長年かけて体にしみこんだものは、そう簡単に、すぐにはぬぐえない。そのことは、今でも感じている。だけど、私の価値観がゆっくりと大きく変わり始めている。劣等感を強く持ち、社会の中で生きることから逃げ腰だった世界から、困難はいろいろとあるけれど、それでもなんとか生きていけるという世界に変わった。もう、吃る自分をごまかさなくてもいい。自分のことばで、話したいことを話したいように話せることの喜びを、今感じている。
この先も、おそらく平たんではないであろう自分の人生を生き抜いていくのは、正直言って少し恐い。それでも、私はなんとか生きていくのだと思う。どもりとの関わりを通して、私は仲間から"自分の人生を生きる"勇気をもらった。自分自身のどもりが変わるということは、生きる姿勢も少しずつ変わるということなのかもしれない。
私がこうして、どもりのことで仲間と笑ったり熱く語ったりしているなんて、2005年11月18日の私が知ったら驚くに違いない。そんな私はなんて幸せなんだろうと、思う。
【作者感想】
ショートコースの初日の夜、皆さんとともに「ことば文学賞」のノミネート作品を味わいました。どれもユーモアあふれる作品で、笑いがこみ上げました。私の作品はユーモアの要素はありませんでしたが、今、自分が感じていることをそのまま書きました。
書き始めるとこれまでの思いがこみ上げてきて止まらず、一気に書きました。書きながら、たくさんの人たちの顔が思い浮かびました。
こんなことを書くのはとても恥ずかしいですが、この自分の作品を読むと、今でもうっすら涙が浮かんできます。
大変なことがたくさんあった人生だけど、今の私は幸せだと、しみじみと思います。たくさんの仲間とともに歩んできた時間が、ゆっくりと私の世界を変えてくれました。こうして文章にして振り返ってみると、「私、意外と、頑張って生きてきたんだ」と少し自分を誇らしく思いました。
優秀賞をいただき、本当に嬉しかったです。ありがとうございました。
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2011年度 優秀賞
チャレンジ −子どもたちと共に−
長谷川 佳代
ついにこの日が来た。教師になって5年目…。一番恐れていた卒業式での呼名だ。児童の名前を一人ずつ呼んで、コメントを言わなければならない。吃らない人にとっては、難しいことではないが、吃る私にとっては、一大イベントである。
教師になった以上、6年生の担任をすることは避けて通れないことはわかっていた。しかし、いざ卒業式が目の前に迫ると、居ても立ってもいられなくなった。厳粛な場で、自分がマイクに向かって話している姿を想像しただけで、鼓動が激しくなった。
幸い、今は支援学校に勤務しており、1クラス2名で担任しているので、私か、もう一人の先生が呼名すればいい。前任校は小学校だったので、6年生を担任すれば、必ず自分が呼名しなければならない。今、支援学校で一緒にクラスを担任している先生は、ベテランの先生で、何でもリードしてやってくれるので、きっと「ぼくが呼名するわ」と言ってくれると思っていた。しかし、
「ぼく、花粉症だから、卒業式の呼名できないねん。前、6年生を持ったときも、声が裏返って、予行練習で交代させられてん」
と笑いながら言われた。私は心の中で「花粉症で声が裏返るぐらい、何ってことないやん! 私なんか吃るねんから!」と叫んでいた。その時、「私は吃るから、呼名できません」と言おうか迷ったが、いずれ、また小学校に戻るし、この先の長い教師生活を考えると、卒業式は避けて通れないので、ここで一度チャレンジしてみるのもいいかなと思った。「もし、練習で無理なときは、もう一人の先生に代わってもらったらいいことだし…」と軽い気持ちで引き受けた。
ところが、幸か不幸か、練習が始まると、もちろん吃りはするものの、吃って立ち往生することなく、なんとか声が出た。「これなら、本番もなんとかなるかもしれない」と思った。練習を繰り返す中で、自分なりに声を出すタイミングを工夫した。ジェスチャーをつけたり、身体でリズムをとったり、できるだけ声がでやすいようにした。第一声が出にくいので、マイクの前に立ち、礼をして、顔をあげるタイミングで第一声を言うようにした。そして、できるだけ子どもたちの方を見て、子どもに声を届けるように、ゆっくりと言うようにした。最後に、子どもたちに向かって「立ちましょう」と言わなければならないのだが、「タ行」が苦手な私は、いつも言いにくくて焦っていた。何かいい方法はないかなと考え、ジェスチャーをつけることにした。手で合図をしながら言うと、比較的声が出やすかったので、どうしても声が出ないときは、本番もジェスチャーをつけることにした。
自分なりに声を出すコツはつかんだものの、毎日不安で仕方がなかった。特に卒業式2週間ぐらい前からは、寝つきが悪く、ご飯を食べても味がしないし、精神的にとてもしんどかった。気が休まる時がなく、お風呂やトイレでも呼名の練習をしたり、道で歩きながら、思わず子どもの名前を口にしていたり、卒業式一色の生活だった。今思えば、異様な光景だが、その時はとにかく必死だった。さらに不安が増したのは、高等部の卒業式だ。小学部の教師も参列したのだが、マイクの前で呼名している先生と自分の姿を重ねてしまい、心臓がドキドキして冷や汗が出てきた。そして、今まで以上に、マイクの前に立って呼名するのが恐ろしくなった。
そんな中、練習も大詰めを迎え、後は予行練習を残すのみとなった。ここまで来たら、呼名を代わってもらうのは、子どもたちに混乱を招くので難しく、もう私がやるしかなかった。しかし、この精神状態で卒業式を迎えるのは不安が大きすぎる。吃って立ち往生したときのことを考えておかなければならない。そこで、勇気を出して、もう一人の先生に自分が吃ることを伝えた。そしたら、
「あっそうなんや。別に吃ってもいいやん。卒業式が台無しになるなんて、考えすぎ!」
とあっけらかんと言われた。それを聞いて、気持ちが少し楽になり、
「じゃぁ、吃って立ち往生したら、泣いているふりをしますね!」
と笑顔で答えた。
そして、いよいよ卒業式当日。袴を履いて、教室の鏡の前に立ち、一人で最後の練習をした。他学年の先生に、
「袴きれいー! 私も履きたいな」
と声をかけられたが、「こっちはそれどころじゃないねん。袴を履きたいんやったら、代わりに呼名してよ!」と思った。
式場である体育館へ移動するときに、ある男の子が、
「先生、ぼくめっちゃ緊張してきたわ」
と声をかけてきた。
「そうやな。私も緊張してるよ。でも、今まで練習してきたし大丈夫。がんばろう!」
と男の子に言ったのと同時に、自分にも言い聞かせた。
拍手と音楽に包まれて入場した。子どもたちの前では、笑顔でいることを心がけているが、この時ばかりは顔がひきつっていたに違いない。校歌斉唱の後、いよいよ卒業証書授与だ。次の呼名に備えて、しっかり声を出して校歌を歌った。司会の先生の「卒業証書授与」と言う言葉を聞いて、マイクの前に移動した。足はガクガク震え、私の緊張は最高潮に達した。でも、もうやるしかない。逃げられない。子どもたちの方を見てから、礼をして、
「小学部の課程を終え…」
と身体でリズムを取りながら第一声を出した。声は震えていたが、なんとか最初の難関を突破した。名前とコメントは全て覚えていたので、できるだけ子どもたちの方を見て、子どもたちに語りかけるように、一言一言ゆっくりと言った。様々な面でハンディを持っている子どもたちだが、精一杯返事をし、卒業証書を受け取る姿を見て、私も同じ土俵で自分の力を出し切ろうと思った。相変わらず、足は震えていたが、子どもたちの姿を見ているうちに、少しずつ平常心を取り戻すことができた。
そして、最後の言葉「立ちましょう」を残すのみとなった。マイクに向かって言おうとしたが、声が出なかった。絶対絶命のピンチ!!! 焦れば焦るほど、喉が締め付けられる感じで、全く声が出ない。このままではどうがんばっても声が出ないと思い、一度マイクから一歩下がって、一呼吸置いた。そして、気を取り直して、手で合図をしながらもう一度言った。間はあったものの、なんとか声が出た。
言い終えた後は、ほっとして全身の力が抜けた。「立ちましょう」と、たった一言言うだけなのに、かなりエネルギーを使った。身体でリズムを取ったり、ジェスチャーをつけたり、こんなことをする先生は他にはいなかったが、最後までやり遂げられてやれやれ…これでやっと重圧から解放された! 十数分の時間だったが、ものすごく長かった。
この一年しんどいことも多かったが、一生懸命生きている子どもたちからたくさん勇気をもらった。不安を抱えながら、卒業式の呼名にチャレンジできたのも子どもたちのおかげだ。それと、もう一つ大きな存在なのが、吃音教室。吃音教室に通って7年。たくさんの良き仲間に巡り合い、様々な体験談や考えに触れることができた。朝礼、式典、会議…など色々な場面で吃りながらも、対処法を考えたり、工夫をしたりしながら、困難を乗り切っている人たちの姿を見て、「どんな場面でも吃っても大丈夫なんだ」と気持ちが楽になった。
これからも、教師をしていく限り、厳粛な場で話す機会は幾度となくあると思うが、吃音教室の仲間と共に、一つずつ乗り越えていきたい。吃ってはいけない場所はないのだから…。
【作者感想】
「卒業式を経験したら、ことば文学賞を書こう」と決めていましたが、優秀賞をいただけて、とても嬉しく思います。この作品を書いているときに、「こんな恐ろしい経験をよくしたなぁ〜!」と他人事のように感心してしまいました。
卒業式の呼名がうまくいった、いかなかったよりも、逃げないで最後までやり遂げられたことが、今後の自分にとってプラスになったと感じました。卒業式が無事に終わった今だから言えることなのかもしれませんが、卒業式を経験できて、本当に良かったと思います。きっとまた6年生を持つと、今回とは違った不安や緊張感に包まれると思いますが、またその時に悩んだり、じたばたしたりしようと思います。
吃音教室の皆さんのおかげで、無事卒業式を乗り越えられ、そして、今回の作品が生まれたことに感謝します。ありがとうございました。
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