ことば文学賞 2008年度


最優秀賞 吃ってもいいよ 長谷川 佳代  
 

 「それでは、名前と自己ピーアールを1分間でどうぞ」
 「えーっと、あの…」
 「どうしましたか」
 3年前に受けた、大阪府の教員採用試験の2次面接でのことである。自分の名前が言えない。長谷川の「は」がどうしても出ない。手を振っても、体でリズムをつけても、息を深く吸っても、何をしても駄目だった。
 「もう落ちた!!!」と心の中で叫んだ。そして、・・・

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優秀賞 世界を変えるためには 木村 藍  
 

 就職先なんて見つからないんじゃないかと本気で思っていた。私は来年3月で大学院を卒業する。卒業するからには就職活動をしなければいけない。しかし、いつになったら内定という言葉に出会えるのか、不安でしょうがなかった。内定なんて自分はもらえないんじゃないかと本当に思っていた。
 私が大学院に進んだのは、勉強が好きだからと人には言っていたが、実は就職するのが嫌だったからだ。就職の前の就職活動が、怖くて仕方なかった。・・・
 恐怖の中心にあったのは、「どもる」ということだった・・・

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優秀賞 伝えられなかったこと 堤野 瑛一  
 

 大好きなピアノを勉強するために、僕は大学へ進学した。
 高校二年で急に思い立って、ピアノ科受験の準備を始めるなんて遅すぎると、周りの人から言われもしたが、意志が強く、負けず嫌いだった僕は、音楽への情熱だけを糧に、大学でピアノを学べることを夢見て、練習、勉強にあけくれた。
 そうした思いと努力の末に、入学した大学だった。
 しかし、入学を境に、僕のどもりの苦悩は始まった。・・・

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2008年度 最優秀賞

吃ってもいいよ

長谷川 佳代

 「それでは、名前と自己ピーアールを1分間でどうぞ」
 「えーっと、あの…」
 「どうしましたか」
 3年前に受けた、大阪府の教員採用試験の2次面接でのことである。自分の名前が言えない。長谷川の「は」がどうしても出ない。手を振っても、体でリズムをつけても、息を深く吸っても、何をしても駄目だった。
 「もう落ちた!!!」と心の中で叫んだ。そして、3人の面接官が不思議そうに私を見つめた。「名前が言えないなんて、面接官にどう思われているのだろう…」「早く名前を言わなければ…。でも、声が出ない。もう、この場から逃げ出したい!」焦り、悔しさ、恥ずかしさでいっぱいになり、額から汗が流れ出てきた。と同時に「家であれほど自己紹介や自己ピーアールの練習をして、今日の面接に臨んだ。筆記試験も出来たし、せっかく2次面接まで進めたのだから後悔はしたくない」と思った。そして、勇気を出して、
 「私は吃ります。だから名前が言えませんでした」
 と正直に笑顔で面接官に伝えた。すると、面接官の1人が
 「そうですか。では、吃ってでも結構ですので、ゆっくりお話下さい」
 と笑顔でおっしゃった。その言葉を聞いて、肩の力がぬけた。「吃ってもいい」と聞いてほっとした。私は面接官の言葉を聞くまで、緊張のあまり「面接だから、流暢に話さなければならない」「かっこいい自分を見せなければならない」と思い込んでいた。しかし、吃りを公表したことと、面接官の言葉のおかげで「吃ってもいいから、最後まで笑顔で自分の思いを伝えよう」と決心した。
 面接では「今まで吃りで悩んできた自分だからこそ、悩みを抱えている子どもに寄り添える」など、吃りの自分だからこそ教師としてできることを、手振り身振りを使ってアピールした。熱意が伝わったのか、面接官も相槌を打ったり、うなづいたりしながら、私の方をしっかり見ながら聞いて下さり、私も十分自分を出すことができた。そして、堂々と吃ることができた。面接の最後に、
 「長谷川さんのような先生なら、きっと子どもたちは喜びますよ」
 と面接官が言って下さった。私はこの言葉を聞いて「あぁ、もう合格でも不合格でもどっちでもいい。自分の力を全て出し切った。ありのままの自分を見てもらえたのだから…」と清々しい気持ちになった。
 そして今、5年生の担任として教壇に立っている。相変わらず、毎日吃りながら授業をしている。私は「か行」が大の苦手。国語の教科書に「かたつむりくん」「かえるくん」「がまくん」が出てくるお話には、大変なエネルギーを使う。毎時間汗びっしょりだ。教師の仕事は話すことが多いので、どうしても言えないときは、黒板に書いたり、言い換えをしたりして、その場をしのいでいる。また、指でその物を指しながら、「それ」「これ」「あれ」と言うことも日常茶飯事だ。私がつっかえていると、子どもたちが自然と言ってくれることもある。「子どもたちに助けられていることが多いな」と日々感じる。
 吃って吃って、その場から逃げだしたくなったり、穴があったら入りたくなるようなことがあっても、教師を続けられるのは吃音教室と出会ったからだ。
 以前の私は「吃りながら話すのは恥ずかしいこと」「吃っていたら就職ができない。なんとかして治さなければ…」「吃りさえなければ、幸せだったのになぁ」と思い込んでいた。吃りそうになったら話すのをやめる、電話は自分からかけない、音読を避けるなど「逃げの人生」を送っていた。本当に吃りが憎くて仕方がなかった。そんな私が教師になるなんて、自分でもびっくりしている。
 吃音教室には色々な人がいる。すごく吃るのに話すことが多い仕事に就いている人、吃るのにおしゃべり好きな人、「今日、自分の名前を言うのに10分もかかったわ」とあっけらかんと言う人、吃ってでも自分の意見はきちんと言う人…そんな姿を見て「吃ってもいいんだ」「吃りながらも、楽しい人生が送れるんだ」と安心した。
 どんなに吃っても、私はやっぱり教師の仕事が好きだ。3年前の面接で、笑顔で吃りを公表し、ありのままの自分を見せたから今の自分がある。これからも、落ち込んだり悩んだりしながらも、子どもたちにありのままの自分を見せ、子どもたちと正面からぶつかっていこうと思う。そして、笑顔で自分らしく吃り続けていきたい。

【選者講評】
 話すことが多い教師という職業を選んだ作者は、教員採用試験の面接でまず苦労する。
 自分の名前が出てこない。焦り、悔しさ、恥ずかしさでいっぱいになり、汗が流れ出る。せっぱ詰まった状態の中で、「私は吃ります。だから名前が言えませんでした」と正直に言う。
 ここから面接が展開していくのだが、この臨場感溢れる面接場面は、吃音に悩んだ経験がある人なら大いに共感することだろう。後の展開で、読者をほっとさせる。
このときの作者の心模様が、丁寧に素直に書かれている。面接官のやさしい応対に救われて、作者は自分を取り戻していく。吃音教室で出会った仲間の顔を思い浮かべながら、笑顔で吃りながら自分を出すことができた作者に、拍手を送りたい。
 そして、今、作者は吃りながら子どもたちと向き合っている。
 苦労しながら、自分の夢を実現させた作者の生き方、面接場面での乗り切り方は、これから後に続く人たちにとって、参考となり、励みとなり、勇気を与えることだろう。

【作者感想】
 「今年こそは文学賞を書こう!」と毎年思っていましたが、7月に吃音教室で「自分の体験談を綴る」の講座に参加したのがきっかけで、今年初めて応募しました。まさか、最優秀賞を頂けるなんて思っていなかったので、大変驚いています。
 自分の体験を文章に書くことで、自分自身を振り返ることができ、また新たな気持ちで吃音と向き合っていこうと思いました。
 「吃音」を通して、たくさんの温かい人たちと出会えて幸せに思います。「吃音教室」という、安心して自分を出せる場があることに改めて感謝します。

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2008年度 優秀賞

世界を変えるためには

木村 藍

 就職先なんて見つからないんじゃないかと本気で思っていた。私は来年3月で大学院を卒業する。卒業するからには就職活動をしなければいけない。しかし、いつになったら内定という言葉に出会えるのか、不安でしょうがなかった。内定なんて自分はもらえないんじゃないかと本当に思っていた。
 私が大学院に進んだのは、勉強が好きだからと人には言っていたが、実は就職するのが嫌だったからだ。就職の前の就職活動が、怖くて仕方なかった。大学4回生の春から秋にほんの数回した就職活動でも、集団面接が怖くて無断欠席したことがある。それぐらい就職活動に恐怖を感じていた。
 恐怖の中心にあったのは、「どもる」ということだった。吃音教室に参加して、自分がどもるという事実を認めてはいたけれど、人の反応が怖かった。どもると変な目で見られるから絶対に落とされるし、集団面接で一緒に受ける学生にも変に思われる。そう考えると、どもるのが怖くて、恥ずかしくて、どもりを人に知られたくなかった。
 就職活動が怖かったからか、就職活動自体にやる気を出せなかった。自己分析も会社研究も筆記試験対策もほとんどしていなかった。面接対策については全くしていなかったので、マナーからひどかった。スーツも大学入学時に買ったもので、ぶかぶかで全く似合っていなかった。受けた会社は全て落ちた。今考えると当然のことだと思えるが、当時の私は、自分が何もできていないことをわかっていなかった。「怖い」と思うのに、何も努力をしていなかった。
 その後、私は大学院に進むことを決めた。研究したいことがあったからでもあるが、私は逃げたのだ。そして私は別のことからも逃げていた。それは、話すことだ。 しばらくしてから、吃音教室で伊藤さんに叱られたことがある。木村は下を向いて小さな声で一人で喋っている、どもる態度は変えられることだ、と。少しずつ変えていけばいいかと思いつつも、何もしないで逃げて怠けていたことをズバリと言われた。2年半吃音のことで毎日泣いていた頃に比べたら格段に吃音を受け入れられるようにはなっていたけれど、吃音は受け入れるだけじゃ駄目なことに気付かされた。一人で喋っているような人間を雇おうとする会社がなかったのも、当然のことだった。
 4月、私は大学院に入学し、自己紹介で初めて吃音のことを言った。怖かったが、言った後は楽になった。院生協議会という生徒会にも立候補した。今まで吃音があるからと言って逃げてきたことをしてみたいと思ったからだ。勇気の面で、私は変化していた。 けれども、話すことへの自信がなかった。そんな中、ショートコースで発表することになった。発表当日は、とても怖かったし、心臓の音も緊張もものすごかった。それでも、ちゃんと発表ができた。人前で話すことに自信がついた。
 年が明けた1月から、就職活動を始めた。今回の就職活動は、4回生の時とは違って、やる気があった。前に進んでいく勇気もあるし、人前で話すことも怖くない。堂々とどもって、どもりを前面に押し出した就職活動をしようと思っていた。どもる自分を見てもらうんだ、堂々とどもっていれば大丈夫だ、と。
 しかし、最初に行った会社説明会の受付で名前を言う時に、激しくどもった。「堂々と」とは程遠かった。緊張が勝ってしまっていた。人事の人が言う。「そんなに緊張しなくていいですよ」。確かに緊張もしていたが、緊張していたからだけじゃない。なんでどもる人の存在を知らないんだ。悲しくて悔しくて、帰りの電車の中で涙が出てきた。
 しかし、落ち込んでいる場合じゃない。今回はなんとしてでも就職しなければ。色々な説明会に行き、選考を受けた。4回生の時より筆記試験対策をしたので、筆記試験で落ちることはなくなった。しかし、面接で落ちる。一次面接やグループワークを受かっても、別の担当者による面接で落ちる。選考の一つで店舗でのインターンシップをした時も、「どもるのがなかったらいけてる」と言われた。どもる人じゃ駄目なのか? なんで世の中にはスラスラしゃべる人しかいないと思っているんだ? 「劣っていると思わなくていい」などの「励まし」を言う人も、どもる姿に不快な表情を浮かべる人もいる。どの面接でも、最初にどもることを伝えているのに、落ちる。だんだんと、どもることが嫌になってきた。
 何度も「どもるの嫌や」と泣いた。自分がどもりであることが嫌なのではなく、吃音への理解がないことが嫌だった。「どもります」「吃音者です」と言って、理解できる人がなんでこんなに少ないんだ。本当に、どもる人を採用してくれる会社なんてあるのか? みんな吃音を隠して受かったんじゃないのか? 私も今までのアルバイトは隠して受かってきた。私は今真剣になっているから緊張している。だから隠せなくなってひどくどもる。けれども、こんなにどもる私を、どこが採用してくれるというのか。どこも採用してくれないんじゃないか。どもることが、本当に嫌になった。
 もう6月になっていた。ある就職イベントの相談コーナーに相談をしてみた。私にはそこへ行くにも勇気のいることだった。私は相談しながら涙が止まらなくなった。それぐらい苦しかったのに、担当者は何一つ救ってくれなかった。「会社としても、どもる人をお客さんに近い所に置きたくないのでしょう」「向き不向きがあるんだからどもる人に向いている仕事を探せばいい」。どもりだからしてはいけない仕事があると言われているようだった。しかも、相談に乗るどころか、学校の就職課に聞けと突き放す。悲しくて悔しくて、その後は1時間トイレから出られなかった。しかし、このことから、普通の人にとっては吃音なんてどうでもいいことなんだ、と力が抜けた。必死になって吃音のことを理解してもらおうとしている自分が馬鹿らしく思えた。
 それ以来、力を抜いて挑むようになった。面接もだんだんと慣れてきた。どもり方もマシになってきた。院生協議会での仕事も、問題を解決していくことで自信がつき、履歴書に書いたり面接で話したりする良いエピソードになった。
 どもることの公表も、明るく言えるようになった。以前の公表は、自分がつっかえつっかえで話していることの言い訳をしているようだったと今思う。「吃音」という言葉を知っている人は本当に少ないし、「どもります」と言っても、ただ緊張してどもるのだと勘違いされる。だから私は「障害」だと言っていくことにした。私は吃音は障害だと思って楽になれた。だから、人にもこれは障害だと伝えた方が楽になる。それに「障害」は言いやすいサ行だ。言いやすいからもっと楽に言える。力を抜くと、楽な方を選ぼうと思える余裕も出てきた。
 公表したことで得た印象深い経験がある。それはグループ内で自己紹介をし、互いに印象を書くグループワークだった。私は吃音があることを伝えた。書かれた印象は「真面目」「緊張してそう」がほとんどだった。次に再び一分間ずつ話す。私は、昔は悩んで人前では喋れなかったが、吃音教室と出会って考え方が変わり、今では営業の仕事をしたいと思っているという話をした。すると印象が「前向き」「タフ」「話に共感を持てる」に変わった。周りの人がどういう反応や評価をするのかが、言葉にされてよくわかった。変に思われるどころか、逆に評価が上がった。でも、下を向いて小さな声で喋っていたら、きっと同じ評価はもらえなかっただろう。私は、ちゃんと顔を上げて話さなきゃいけない。それに、吃音や障害があるという事実だけでは理解されにくいこともわかった。自分が隠さずに顔を上げて明るく話をすれば、ちゃんと聞いてくれる、見てくれる。
 6月の就職イベントの翌日から、落ちてもいいやと思いながら、業界もバラバラに受けてきた。そして7月、8月、ついに内定をもらった。しかも3社からだ。そのうち2つは営業の仕事だ。どもるのに、営業で採用された。
 1つ目の会社は、一次面接では、初めにどもることを言わないでいたら少し馬鹿にされていたが、障害だと言った途端、面接官の表情が変わった。最終面接はほとんど吃音に関わる話ばかりだった。ペラペラ喋る営業じゃなく、気持ちを伝える営業をしたいこと、そして自分がそうだったように、どもる営業ウーマンになって、これから就職するどもりの人に勇気を与えたいことを伝えたことが、合格になったと思う。
 2つ目の会社は、話を聞く態度と、見た目が「できそうな人」ということで、雰囲気からほとんど受からせてくれたんじゃないかと思っている。相槌と笑顔の、話を聞く態度は、吃音教室で学んだ。また、就職活動中、自分に合うスーツで髪もビシッとまとめて眼鏡もかけていたら、複数の人に「できそうな人」「キャリアウーマン」と言われた。老けたとも言われたが、以前就職活動をしていた4回生の時には、新入生と間違われてサークル勧誘されていたぐらいだ。見た目から変えることも大事だったのだ。
 3つ目の会社は、面接は無しに、19日間のインターンシップで、課題に対する能力や姿勢を見てくれた。発表の時にひどくどもっても、ちゃんと中身を評価してくれた。
 私は、就職活動中、たくさんのことを吃音のせいにした。「吃音があるから落ちたんじゃないか」「どもる自分なんかどこが採用してくれるのか」。しかし今振り返ると、一度目の就職活動では根本的な対策が、そして二度目は面接で話した内容がかなりひどいものだったと気付く。自分が受かることにも必死だった。受かるために本当は思ってもいないことを言ったし、どこかから盗んできた言い回しも使った。自分の言葉を伝えていなかった。自信もなかった。
 私は自分を磨かずに、吃音が理解されない不満ばかりを言っていた。自分がいかに間違っていたか、今気付く。面接を何度も受け、落ちては悩む中で、私は変わっていった。自分が変われば、世界が少しずつ変わっていった。世界が変わってほしいと思うなら、自分を変えなければならなかったのだ。
 就職先は、尊敬できる経営陣がいて、インターン中、日々自分を成長させ、自分がどういう仕事をしたかったのかを思い出させてくれた、最後に内定をもらった会社に決めた。就職活動の中で学んだこと。それは、就職には努力や対策が必要で、落ちたことを吃音のせいだと思える間は受からないということ、そして、どもっていても就職できるということ。この言葉は、長い就職活動を終えた今、本当に、心の底から言える。

【作者感想】
 ことば文学賞への応募は3度目なのですが、毎年発表の時に「選ばれたらどうしよう」なんてアホなことを思っていたのですが、今年は本当に賞をもらえてうれしいです。
 タイトルがいまいちだったと言われてしまいましたが、私としては、吃音を理解してくれない自分の周りの人々や世界に不満を言い、変えたい、変えようとしていたけれども、世界を変えるためには自分を変えなきゃいけないんだと気づいた、ということを一番言いたかったので、すごくいいのを思いついたなと思いました。でも伝わりにくいようだなと思いました。
 受賞作品発表の時、みんなの前で読んでいてあまりどもらなかったので、文章の内容とにギャップがあると言われました。どもり方が変わったのは、就職活動の中で、力を入れていることのアホらしさに気付いたことと、もう一つ、吃音教室の人達が態度を叱ってくれたり、反抗期にきちんと付き合ってくれたことがあったからだと思います。そういった経験の中で、自分の中で何かがパーンとはじけた感じがして、自分が体中に貼り付けていたものが全部はがれ落ちて、大事そうに持っていた物も全部下に落として、自分の本当の姿や本当の気持ちが自然に出て行った感じがしました。うまく言えないけれど、自分がどう見られるかとかそんなことよりも、自分がどう思うかや、自分が伝えたいことをどう言葉にしていくかに意識が行くようになったように思います。
 受賞できてとてもうれしいです。ありがとうございました。

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2008年度 優秀賞

伝えられなかったこと

堤野 瑛一

 大好きなピアノを勉強するために、僕は大学へ進学した。

 高校二年で急に思い立って、ピアノ科受験の準備を始めるなんて遅すぎると、周りの人から言われもしたが、意志が強く、負けず嫌いだった僕は、音楽への情熱だけを糧に、大学でピアノを学べることを夢見て、練習、勉強にあけくれた。
 そうした思いと努力の末に、入学した大学だった。

 しかし、入学を境に、僕のどもりの苦悩は始まった。
 ほんの二年前に発症し、そのうち自然に治るだろうと軽くみていたどもりは、一向に治ってはおらず、僕は入学直後のある授業で、初めて人前で激しくどもり、深く傷ついた。
 このままでは駄目だと考えた僕は、一年間大学を休学し、必死の思いで、どもりの治療を試みたが、結局まったく治らないままに、休学期間を終え、一年越しに、改めて大学生活をスタートさせた。

 とはいえ、僕は怠惰だった。きちんと、どもる自分自身と向き合うことはせずに、この期におよんで、そのうちどもりが自然に治らないかと、根拠のない期待をいだき、人前でどもることを、極端に恐れた。そうしながら、みんなの前で発言を求められるような授業は避け、だましだまし、大学生活を送り始めた。

 しかし、レッスンだけは、毎週欠かさず通った。
 大学では週に一度、ピアノ実技の個人レッスンがある。ピアノが二台置いてあるだけのレッスン室で、マンツーマンで行われる。僕のレッスンの担当は、東欧人の先生だった。
 先生は、一応日本語は話せたものの、あまり上手ではなく、つたない日本語だったので、会話のペースはいつもゆっくりだった。そのせいか、僕は先生に対してだけは、どもりの不安は比較的小さかった。それに、先生だって日本語の流暢でない外国人なのだから、という気持ちもあり、先生の前では割合どもることもできた。

 レッスンを重ねるごとに、僕はだんだん、先生に親しみを感じ、先生を好きになっていった。
 先生は、一見怖そうな50代の男だったが、話しだすととても気さくで、面白おかしくよくしゃべり、よく笑った。レッスンとは関係のない、ごくプライベートなことまで、なんでも開けっぴろげに、よく話してくれた。
 いつも煙草をくゆらせ、おおよそ、日本人の先生にはあり得ないような、自由奔放な振るまいだったが、それでいて、指導は丁寧で、いつでも鮮やかに、ピアノを弾いてみせてくれた。
 僕は先生に憧れていた。ずっと昔から親子関係の良くなかった僕は、本来父親に対して向けられるような愛着を、先生に対して感じていた。
 この先生から、たくさんのことを学びたいと思い、毎週、レッスンに向かうのが、楽しみだった。

 しかし一方で、僕のどもりに対する苦悩は、日に日に膨れあがっていった。
 相変わらず、いくつかの授業は避け続けており、どもりになにか変化がある気配もない。いつまでも、ごまかしがきくはずもなく、どんどん焦りが増した。
 僕は入学当初、いっさいの努力を惜しまない意気込みでいっぱいだった。しかし、こんな状態が続けば、いくら大学に来たって、単位を取れずに卒業できない。その先、社会に出ることだってままならない。このままでは、いくら努力をしたって、なにも実らず、なにも報われない。ピアノなんか一生懸命練習したって、なにもならない。
 そんな気持ちが、僕の心を徐々に支配していき、練習も、だんだんと上の空になっていった。

 そんなある日のレッスンでのこと。先生は唐突に、
 「あなた、いつも悲しい顔をしてる。なにか悲しいことでもある?」と僕にきいた。
 僕はいっそ、この際に、誰にも話せないでいたどもりの苦悩を、すべて先生に話してみようかと一瞬思った。しかし結局思いとどまり、ただ遠慮がちに、「僕は吃音があるので・・・」とだけ答え、それ以上は話さなかった。
 僕は、どもる症状自体も去ることながら、それにともなう苦悩の内容と、そういう自分の弱さを、人に知られることが怖かったのだ。
 先生は、意外にも”吃音”という言葉を理解し、「ああ、どもりね。ボクもどもりだよ。」と言った。言われてみれば、たしかに先生も、若干どもることがあった。先生は、僕を励ますふうに話を続けた。
 「そんなこと以外にも、ボクには怖いことがたくさんある。会議でも、外国人は自分だけだし、日本語は難しいし、よその子どもに”外人だー”なんて言われることもあるし・・・でも、どもることくらい、心配いらない、大丈夫。」
 僕は静かにうなずき、とりあえず納得したようなふりをしたが、「いや、全然大丈夫じゃない、そんな軽い悩みではない」という思いが込みあげた。
 しかし、どもることで学校生活が恐ろしくて仕方がないこととか、具体的にどんな場面に怯えているのかとか、必要な授業を避けていること、途方のない不安のためにピアノへの意欲が低下してきていることは、怖くて話せなかったし、「僕は吃音があるので・・・」だけでは、そこまで伝わるはずもない。
 悩みの本質をすべて話せなかったことに、あと味の悪い気持ちが残った。

 さらに日がたち、悩みの真っ只中で、ピアノの練習もろくに手がつかなくなったころ、僕はレッスンで、先生を苛立たせることが多くなっていった。
 「何でちゃんと練習して来ないの?」
 僕は、「すみません・・・」としか言えなかった。
 やはり先生の中では、僕がどもりで悩んでいることと、練習がおろそかになっていることとは、結びついていないようだった。 あからさまに先生の機嫌を損ねてしまい、レッスンが始まって数分しかたたないうちに、「今日はもういいよ」と帰されたこともあった。
 先生は、どもる僕に対しては優しかった。「息を吸って、ゆっくり吐きながら話してごらん」と促してくれたり、僕の肩や背中を優しく叩き「大丈夫」と微笑んでくれた。しかし、きちんとピアノの練習をしてこない僕に対しては、厳しかった。それは当然で、ここは音楽を勉強しにくるところなのだ。

 僕の苦悩は、ますます膨れあがった。
 僕は本当にピアノが大好きで、そのためなら努力は惜しまないという気持ちは、決して嘘ではない。しかし、頑張りたいのに頑張れない。決して、怠けたくて怠けているのではなく、本当はいくらでも努力がしたい。先生から、たくさんのことを教わりたい。それなのに、練習が手につかない。
 先生に対して申し訳のない気持ちと、本音を全部話せない自分への苛立ち、どもりでさえなければという悔しさ・・・。
 僕はとうとう耐えられなくなり、不本意ながらも、大学を辞める決心をした。

 またのレッスンの日、僕は、大学を辞めることを先生に伝えるために、いつもの決まった時間に、レッスン室へと向かった。レッスン室のドアを開けると、先生は、いつもと同じように僕を待っていて、いつもと同じようにこれからレッスンを始めるつもりでいて・・・そんな、いつもとなんら変わらない様子が、切なかった。
 僕は、先生とあいさつを交わすなり、いつもの調子で話しだそうとする先生を遮る形で、唐突に、今日で大学を辞めることを告げた。
 先生は、驚いた様子で、「なんで?」ときいてくれたが、僕は、父親の仕事が大変になってきたので・・・と、嘘をついた。
 「そう、残念・・・」と、先生は言ってくれた。
 それからしばらくの時間、先生はなにか話をしてくれ、僕がレッスン室を出るときには、いつもとちがい、一緒に外まで出てきてくれた。そこで表を見ながら、引き続き少し立ち話をしてくれた。
 そういう間じゅう、僕はなるべく平然を装っていたが、実際には、辛さと、申し訳なさと、後ろめたさと、悔しさと、先生との別れの寂しさでいっぱいで、先生の話はほとんど頭に入ってこず、先生の顔も、まともに見ることができなかった。
 そして最後に先生は、「じゃあ、元気でね」と、いつもの微笑をもって、バイバイと手を振ってくれた。

 先生、ちがうのです! 本当は辞めたくない、頑張りたい、先生からたくさん学びたい!・・・そんな僕の叫びは、ただ心のなかで虚しく響くだけで、先生に届くはずもない。
 結局、そんな思いは伝えられないままに、僕はレッスン室をあとにした。以前のあの努力と、入試合格の喜びと、希望に満ちた志は、一体なんだったのだろうかと途方に暮れ、なんともいえない虚脱、無力感に苛まれ、未練をずるずると引きずりながら、大学を去った。

 あれから、ちょうど十年になるが、今、こうして当時をふり返りながら思うのは、人は、驚くほどに変わるということだ。
 当時の僕は、どもりをかたくなに拒絶し、どもりでは生きていけないと固く決め込み、人前でどもることは、人生の終わりかのように恐ろしいことだった。
 しかし、あれから少しずつ、どもってでもできた経験、どもっても他人は自分を否定しなかった経験を重ねていくなかで、徐々に、”どもりをもった自分”という自己像が、確立されてきた。”どもる人間として”生きていこうと、徐々に歩きはじめた。
 なにより、さんざん治療を試みた結果、どもりは治らないと”あきらめた”ことが、僕を新たな歩みへと向かわせた。

 今では僕は、どもるからといって、本当にしたいこと、せねばならないことを、あきらめることはない。
 時間をさかのぼって、”もしも”のことを考えても仕方がないが、今の僕ならば、大学を辞めはしないだろう。多少、不自由で不便で、少々辛いこともあったかも知れないが、それでも、どもるのが自分だと認めたうえで、その都度、どんな手段をつかってでも、どうにかして、大学に通うことはできたはずだ。

 大学を辞めてしばらくは、ピアノもろくに弾かず、無気力な生活を送ったが、年月を経て、徐々に生きる気力がよみがえると同時に、また、ピアノを弾きたい気持ちがあふれてきた。どうも僕は、生きる気力と、ピアノへの意欲が、連動しているようなのだ。
 しかしもう今となっては、先生の教えを受けることはできない。先生は、僕が大学を辞めた数年後に、亡くなってしまったのだ。
 今のような迷いのない気持ちで、もしも先生のレッスンを受けることができたなら、先生は一体、どんなことを教えてくれただろうか。
 そんなふうに、ときどき先生のことを思い出しながら、僕はこれからも、ピアノを続けていくだろう。

【作者感想】
 もう何年も続けて、「ことば文学賞」には応募していますが、今のところ毎回、べつの側面をクローズアップしつつも、これまでの僕の人生の同じ時期にスポットを当てて書いてきました。その同じ時期から、僕はまだまだ、書きたい材料を引っ張りだすことができると思います。それほどに、その時期というのは、僕のこれまでの人生のなかで、もっとも重たく、悩みに悩んだ時期でした。
 毎回、応募作を書きあげて思うことは、あのころは本当に、身動きできないほど悩み、生活の具体的な進展は、なにひとつ止まってしまっていましたが、今にして思えば、そうやって、とことんまで悩み抜いたことが、僕の内面を激動させ、たしかに現在の僕を形づくっており、絶対に無駄ではなかった、ということです。
 それがなければ、僕はもっと貧相だっただろうし、それに、今でも苦労は尽きませんが、あのころにくらべれば! と、いつでも思えます。あのころの体験は、今の僕にとって、とても大切なものです。
 その大切なものを文章に書き出して、優秀賞に選んでいただけたことは、とてもうれしいです。ありがとうございました。

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