ことば文学賞


2010年度 最優秀賞

どもる力

鈴木 永弘

 私の人生を振り返ると、そこにはいつも吃音が深くかかわっていた。
 小中学校を通して一番の悩みは「どもる」ことだった。授業での本読み、発表、学校行事と、どもらなければどんなに楽な学校生活だったろうか。そして高校に入学するとより一層その悩みを深めていった。毎日が「どもり」との葛藤で、そこから解放されるのであれば、その他の事はどうでも良いというような考えを抱いていたのだが、普段は自分を誤魔化して明るさを装っていた。
 そんな辛い高校生活ではあったが、三年生になってから親友と呼べる友達が出来た。彼とは趣味や考え方が近く、話していて楽しかった。そして何よりもしゃべるリズムが妙に合っていて、話しやすかった。ところが二学期に入ってすぐ、体育祭の応援団に参加しなければならなくなった彼が、一人では参加したくないので、しきりに一緒に参加しようと私を誘ってきた。私にとって大声を出さなければならない応援団に入るのは何としても避けたかったのだが、「どもるから一緒に参加したくない」と話すことが出来ずに曖昧な態度をとっていた。そして初練習の日、授業も終わりこれから練習が始まろうとしていた時のこと。午後の日差しがあふれる廊下に、これから一緒に練習に行こうと誘う友人と私の姿があった。あの時の彼はかなり強引だった。それほど一人では練習に行きたくなかったのだろう。それなのに、どうしても一緒に行って欲しいと私の手を引っ張る彼を振り切り、私は一人放課後の廊下を走り去った。どもるかもしれない不安から解放されたい一心で、一緒に参加できない理由を説明出来ずに、逃げるように学校を後にした。あの時、チラッと振り返った瞬間目にした、廊下に差し込む光りに照らされた彼の寂しそうな姿を今も忘れられない。
 「なんて自分勝手な人間なんだ」。ずっと長い間、私は自分の吃音のことしか考えられない人生を送った。

 それからも相変わらず「どもり」に悩む生活は続き、毎日が自分の事で精一杯だった。就職も出来るだけ話す事が少ない仕事を選び、目立たないように静かに生き延びたかった。しかし、こんな弱い自分だからこそ、日々の暮らしの中では他人に優しくなろうと思うようになった。そしてそれが生き延びる手段のような気がしていた。
 そんな私にも付き合う人が出来た。そして彼女に対しても出来るだけ優しく寛容に接するように心がけた。関係は長く続き、平穏な日々が流れていた。彼女にだけは自分が「どもる」ことを話していたし、彼女もきちんと理解してくれていた。
 ある日、車で彼女の家に向かっている途中、信号で停車していると背中にすごい衝撃を感じた。後ろから追突されたのだ。「どうしよう?!」この時のどうしよう? は事故のことでは無い。彼女の家に連絡をしなければならないことだ。電話を掛けると、案の定彼女の母親が出た。今まで何度も彼女の母親とは話をしていたが、事故で気が動転していた私は一言も声を発する事が出来ないまま、電話を切られてしまった。もう一度かけ直す勇気もなく、かなり遅刻して彼女を怒らせてしまった。彼女の怒りは遅刻したことよりも、連絡をしなかったことに対してだった。
 でも、この時私がした言い訳は、公衆電話が近くになく、気が動転していた上に事故処理に手間取ってしまって、電話するより出来るだけ早く迎えに駆けつけたかったというものだった。自分が「どもる」ことをきちんと理解してくれていた彼女にさえ、「電話したけれど、どもって繋がらなかった」と告げることが出来なかった。その時の私には大事な場面でどもった自分がみじめに感じられたが、それよりももう一度電話をかけ直さなかった自分を許せなかった。大切な要件を伝えるよりも「どもり」から逃げることを選んでしまった自分を。

 私は人生において多くのものを吃音のために失ってきた。「どもる」ために我慢したこと、諦めたことは数知れずある。吃音さえなければもっと違った人生を送れたのではないか、多くのものを失わなくても済んだのではないか、と思うことも良くある。いや、あった。
 しかし今は、「これが私の人生なのだから仕方ないな」と思っている。まだまだ、どもると落ち込むし、喪失感で胸がいっぱいになると苦しくなる。でも、全て吃音が原因だとは思っていない。吃音以外にもいろいろ原因がありそうだが、原因を追及して悩むより、どもれる力、失うことを恐れない力、そして他人と自分を認めることのできる優しさを身につけたい。
 それが生きる力なのかなと思ったりする。気負いなく、ゆったりと力強く生きられたなら、自分の吃音を認めることが出来るんじゃないか。その時に私は吃音で良かったと心から宣言したい。

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2009年度 最優秀賞

劣等感

堤野 瑛一

 僕は、ずっと孤独だった。
 幼少のころから、他者と関係をもつことが苦手であり、億劫だった。友達と外で遊ぶよりも、家の中でひとり、電車の模型や、おもちゃのピアノで遊んだり、絵を描いていることが好きだった。そこにはいつも、自分だけの自由な世界が広がっていた。誰にも邪魔をされたくなかった。
 当時は、男の子といえば、おもてで駆けまわったり、公園で野球をしたりするのが普通だったが、僕はそういうことには、まったく楽しさを見出せなかった。
 小学生になっても、中学生になっても、一貫して極度に運動音痴だった僕は、体育の授業が大変な苦痛だった。普通の男の子なら、誰にでも楽々とこなせるようなことが、僕にはうまくできずに、いつも恥をかかねばならなかったし、ドッヂボールなどは、僕にとってはただの拷問だった。父親はいつも、そういう僕を、男のくせに情けないやつだ、と嘲笑していた。
 僕は、緊張感ですぐにお腹をくだしてしまう体質だったので、授業中には毎時間、脂汗を流しながら、便意と戦っていた。
 遠足や修学旅行といえば、みんなにとっては喜ぶべき行事だが、トイレにいつでも行ける自由のきかない遠足とは、僕にとって恐怖でしかなかったし、他人と一緒だとほとんど眠れない僕には、修学旅行とは気の遠くなるような苦行だった。
 遠足や運動会の前日、みんながわくわくと明日を待ち望んでいるのをひしひしと感じながら、僕はひとり、明日が雨になることを、切実に願った。そういうときにはいつも、泣きたくなるような孤独を感じた。僕が切実に望むようなことは、いつだって、ほかの誰も望んでいないことなのだから。
 みんなが好きなことが嫌いであるだけではない。僕は音楽といえばクラシック音楽が好きだったが、音楽の授業でのクラシック音楽鑑賞の時間とは、みんなが退屈するもの、嫌な顔をすべきものでり、自分がクラシック音楽を好きであることは、誰にも言えなかった。
 とにかく僕は、趣味趣向や、興味の対象、物事の感じ方が、みんなとは極端に違っていて、書き出せば切りがないが、好きなことを堂々と好きだと言えない、嫌なことを嫌だと言えない窮屈さに、日々悶えていた。
 小学四年生のころには、僕にチックの症状が出はじめた。そのことで、級友にからかわれたり、担任の教師には煙たい顔をされたりもし、自分はみんなと違っている、自分は劣等品種であるという意識は、それまで以上に顕著なものとなった。
 家にいれば、早くチックを治せと父親には罵倒され、ときには殴られ、蹴られ、母親には、いつになったら治るのだと毎日責められ続けた。かと思えば、弟と母親が一緒になって僕のチックの真似をし、二人して大笑いすることもあった。そういう生活が、延々と続いた。
 学校にも家庭にも、心安らぐ場所はひとつもない。いつどこにいても、他者とは自分を傷つけるもの、脅やかすもの、はずかしめるものだった。
 集団の中で生きていくとは、なんて苦しいことなんだろう!? 人生とは、なんて過酷なんだろう!? こんなにも生きる適性を欠いた自分が、この先生きていけるのだろうか? ああ、誰とも関わらずに、ひとりで生きられるような世界があったなら! 僕は、そんなことばかりを考えていた。将来大人になり、自立して一端の社会人になっている自分の姿など、まったく想像出来なかった。
 それでも、自分の劣等性を可能なかぎりごまかし、背伸びをして「普通」を演じようと努め、ほとんどギリギリの状態で、なんとか学生生活をやり過ごしていたのだが、高校生のとき、そんな僕にとどめを刺すようなことが起こった。僕は、どもりになってしまったのだ。その挙句、せっかく必死に努力をして入学した大学さえも、どもりによる不自由、劣等感にくじかれてしまい、退学してしまった。
 僕は、自分の境遇、人生を、心底憎んだ。なんで俺ばかりがこんな目に!? なんで俺ばかりがこんな目に!? もはやそんな言葉しか浮かばず、それまでずっとこらえてきて溜まりに溜まっていた涙が、一気に流れ出た。僕は、本当に孤独だった。

 それ以後数年間は、無気力で、荒れた生活が続いた。精神的にかなりすさんでいて、犯罪にも手を出し、絶望的な気持ちで日々を過ごしていたが、他方、完全にぐれたり、死ぬ勇気もなかった僕は、なんとか生きる術を身につけなければならないと、常に頭の片隅では考えていた。
 僕が考えていたこととは、どもりを治すことだった。どもりさえ治ってくれれば、もうほかにはなにも望まない。どもりに比べれば、以前より抱えていたほかの劣等性など大したことではない。どもりが治るためならば、どんな苦しいことだってする。どもりさえ治れば、あとはどうにだってなる――そう考えていた僕は、毎日毎日発声練習を続け、どもりを治してくれるかもしれないと思えば、どんな治療機関にでも駆け込んだ。
 しかし、なにをやっても、どもりが治るような兆しは一向にみられず、何度も何度も期待をくじかれ、疲れ果て、僕はもうボロボロになってしまった。
 とことんまで落ち込み、消耗しつくしたとき、自分は一体なんのために一生懸命になっているんだろうという疑問が、頭をかすめるようになった。僕は、どもりが治ることだけを夢に見て、それに莫大なエネルギーを注いできたが、仮にどもりが治ってみたところで、それはなんてことない「普通」である。僕のこれまでの人生の苦しみは、「普通」でないことへの苦しみだった。なぜ「普通」でないことに、そこまで劣等意識をもつ必要があろうか? なぜいつも自分だけが、たかだか「普通」のために身を削って努力せねばならないのか? ああ、なんて馬鹿らしいのだろう!? どもりは治らないとわかった今、もう「普通」ではない自分を認め、「普通」をあきらめるほんの少しの勇気さえあれば、僕は生きていけるのではないか!? 僕には、ありのままの自分でいる権利があるはずではないか!?

 僕は、どもりを治す努力を一切やめ、どもる人間として生きていく決心をした。その決心の表れとしての大きな第一歩が、大阪吃音教室への継続的な参加だった。そこで僕は、以前はまともに向き合うことが嫌で嫌で仕方がなかった自分のどもりと正面から向き合い、自分がどもる人間であることを素直に認めた。それだけではなく、チック症や、そのほか以前より抱えていた自分の劣等性、劣等感すべてと、僕は正直な気持ちで向き合うようになった。
 どもりを認めたといっても、その瞬間から劣等感が消えうせたわけではない。人前でどもってどもって話すことは、たしかに少々こたえるものがあったが、少なくとも、背伸びをしたり、借り物の衣装を無理に着ているのではない<自分自身>を、そこに感じることができた。チックの症状が人目に触れることに、なんの抵抗も恥ずかしさもなくなったわけではないが、しかし、それが自分なのだと認め、開示をすることで、僕はほかの誰でもない自分自身を生きているという感じがした。
 僕は自分の人生においてようやく、優劣や価値にとらわれない、ただあるがままの<自分自身>になることができた。
 大阪吃音教室でのどもる仲間との出会いは、戦友を得たようで頼もしく、嬉しかった。週に一度の例会には、毎週積極的に参加をした。
 しかし、そういう仲間の中にいても、僕は安易にみんなと同化してしまうのではなく 、あくまで自分固有の感じ方、考え方、自分の体験を通じての直観を大切にし、自分の言葉で発言をしていった。日常のあらゆる場でも、僕はあくまで、僕個人の言葉を語り、相手の話にも真剣に耳を傾け、良くも悪くも、他者と正面からぶつかるようになった。
 その結果、他者と大きな対立をし、相手も自分も大きく傷つけることもあったが、他方で、(僕の勘違いかもしれないが)僕をとても信頼してくれる人も、ポツポツと現れだした。劣等感に苛まれつづけた昔の僕には考えられないことだが、あらゆる他者との正面きってのかかわりの中で、自分の人生の主体はあくまで自分であるという感覚や、自分は一個人として共同体の中で生きているという感覚がもてるようになった。
 僕は今でも、劣等感のすべてから解放されたわけではないし、僕は今でも孤独である。しかし、孤立はしていない。この世界には自分のような人間でも生きられる空間がある、僕は生きていける、という思いがある。
 劣等性や劣等感は、人生の過酷さだけではなく、その過酷さを生き抜いてきたからこそ味わえる喜びを教えてくれた。それに、こういう境遇を生きてこなければ、たぶん味わえなかったような人の温かさを、ほんのときどき感じさせてくれる。
 どのように生きたって、いずれこの人生は終わる。それなら、僕はあくまで自分自身を生き、自分自身をもって他者とかかわり、そして、自分自身を死にたい。

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2008年度 最優秀賞

吃ってもいいよ

長谷川 佳代

 「それでは、名前と自己ピーアールを1分間でどうぞ」
 「えーっと、あの…」
 「どうしましたか」
 3年前に受けた、大阪府の教員採用試験の2次面接でのことである。自分の名前が言えない。長谷川の「は」がどうしても出ない。手を振っても、体でリズムをつけても、息を深く吸っても、何をしても駄目だった。
 「もう落ちた!!!」と心の中で叫んだ。そして、3人の面接官が不思議そうに私を見つめた。「名前が言えないなんて、面接官にどう思われているのだろう…」「早く名前を言わなければ…。でも、声が出ない。もう、この場から逃げ出したい!」焦り、悔しさ、恥ずかしさでいっぱいになり、額から汗が流れ出てきた。と同時に「家であれほど自己紹介や自己ピーアールの練習をして、今日の面接に臨んだ。筆記試験も出来たし、せっかく2次面接まで進めたのだから後悔はしたくない」と思った。そして、勇気を出して、
 「私は吃ります。だから名前が言えませんでした」
 と正直に笑顔で面接官に伝えた。すると、面接官の1人が
 「そうですか。では、吃ってでも結構ですので、ゆっくりお話下さい」
 と笑顔でおっしゃった。その言葉を聞いて、肩の力がぬけた。「吃ってもいい」と聞いてほっとした。私は面接官の言葉を聞くまで、緊張のあまり「面接だから、流暢に話さなければならない」「かっこいい自分を見せなければならない」と思い込んでいた。しかし、吃りを公表したことと、面接官の言葉のおかげで「吃ってもいいから、最後まで笑顔で自分の思いを伝えよう」と決心した。
 面接では「今まで吃りで悩んできた自分だからこそ、悩みを抱えている子どもに寄り添える」など、吃りの自分だからこそ教師としてできることを、手振り身振りを使ってアピールした。熱意が伝わったのか、面接官も相槌を打ったり、うなづいたりしながら、私の方をしっかり見ながら聞いて下さり、私も十分自分を出すことができた。そして、堂々と吃ることができた。面接の最後に、
 「長谷川さんのような先生なら、きっと子どもたちは喜びますよ」
 と面接官が言って下さった。私はこの言葉を聞いて「あぁ、もう合格でも不合格でもどっちでもいい。自分の力を全て出し切った。ありのままの自分を見てもらえたのだから…」と清々しい気持ちになった。
 そして今、5年生の担任として教壇に立っている。相変わらず、毎日吃りながら授業をしている。私は「か行」が大の苦手。国語の教科書に「かたつむりくん」「かえるくん」「がまくん」が出てくるお話には、大変なエネルギーを使う。毎時間汗びっしょりだ。教師の仕事は話すことが多いので、どうしても言えないときは、黒板に書いたり、言い換えをしたりして、その場をしのいでいる。また、指でその物を指しながら、「それ」「これ」「あれ」と言うことも日常茶飯事だ。私がつっかえていると、子どもたちが自然と言ってくれることもある。「子どもたちに助けられていることが多いな」と日々感じる。
 吃って吃って、その場から逃げだしたくなったり、穴があったら入りたくなるようなことがあっても、教師を続けられるのは吃音教室と出会ったからだ。
 以前の私は「吃りながら話すのは恥ずかしいこと」「吃っていたら就職ができない。なんとかして治さなければ…」「吃りさえなければ、幸せだったのになぁ」と思い込んでいた。吃りそうになったら話すのをやめる、電話は自分からかけない、音読を避けるなど「逃げの人生」を送っていた。本当に吃りが憎くて仕方がなかった。そんな私が教師になるなんて、自分でもびっくりしている。
 吃音教室には色々な人がいる。すごく吃るのに話すことが多い仕事に就いている人、吃るのにおしゃべり好きな人、「今日、自分の名前を言うのに10分もかかったわ」とあっけらかんと言う人、吃ってでも自分の意見はきちんと言う人…そんな姿を見て「吃ってもいいんだ」「吃りながらも、楽しい人生が送れるんだ」と安心した。
 どんなに吃っても、私はやっぱり教師の仕事が好きだ。3年前の面接で、笑顔で吃りを公表し、ありのままの自分を見せたから今の自分がある。これからも、落ち込んだり悩んだりしながらも、子どもたちにありのままの自分を見せ、子どもたちと正面からぶつかっていこうと思う。そして、笑顔で自分らしく吃り続けていきたい。

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