2007年度 最優秀賞
一番伝えたいひと
藤岡 千恵
私がどもりで悩んでいる事は、家族にさえ秘密だった。
幼い頃、私が吃ると必ず両親に言い直しをさせられて来た事で「私の喋り方はおかしいのかな?」と感じ始めた。
私が吃れば両親は「もう一回、落ち着いてゆっくり言ってごらん」と言い、私がつっかえないように意識しながらゆっくり言い直すと誉められた。
小学校の頃は吃音を隠す術を知らなかった。国語の本読みではもちろん、会話でも吃っていた。そんな自分に強いコンプレックスを抱くようになり、言い換えをしたり、吃りそうな言葉だと喋らないという自分なりの隠す術を身に付けていった。
言い直しをされられていた経験や、授業参観で吃りながら作文を読んだ時に教室が凍り付いたように感じた事などから、幼心に「私が吃るとお父さんもお母さんもガッカリするし、何より吃る私は愛されないんじゃないか」というような考えが私の中に刷り込まれていった。だから家族と居る時も吃らないように工夫して喋るようになった。そんな私を見て、いつからか父も母も、私の吃音を真似して笑っていた弟さえも、私の吃音は治ったのだと思っていた。
私は幼い頃から成人するまで、吃音の事を誰かに話すなんて考えもしなかったし、自分が吃音者だという事はおろか、吃音で悩んでいると知られる事も恐くて仕方が無かった。
そんな私が、吃音で悩んでいるという事を母に手紙で打ち明けた事があった。
それは、短大で就職活動をしていた時の事。幼稚園・保育園・乳児院に実習に行き、想像していた以上にどもりが弊害になると思い込んだ私は、就職をする自信を無くし、吃音が治るまでは就職は出来ないかもしれないと思っていた。
そして、就職活動をしないのなら母に伝えなきゃ、と考え、『今まで吃らないように工夫して隠してきた事、実は今もどもりで悩んでいる事、吃るから就職したくない事』などを便せんにびっしり書いた。
それが、私が生まれて初めて人に向けて自分が吃音者である事を伝えた瞬間だった。
それを読んで母は泣いた。私はその姿を見て固まってしまった。
母は私に、ただ一言「今まで辛かったんやね。気づいてあげられなくてごめんね。」と言った。
その時私は、母に伝えられて良かったとは思わず、私のこの胸の内は母が涙する程に大きな事なのだと捉え、胸が痛くなったのを覚えている。
私がずっと一人で抱えてきた事のしんどさを母が理解をしてくれて、「気づいてあげられなくてごめんね」と言ってくれた事は嬉しかった。だけど、それ以上に「お母さんをこんな風に泣かせるのなら、これからも絶対に吃らないようにしなきゃ」と歪んだ解釈をしてしまった。
それからの私は、相変わらずどもりを隠し続けて生きてきた。この大阪吃音教室に来るまでは。
私が大阪吃音教室の扉を初めて叩いたのは9年ほど前。
私が22年間心の中に溜め込んできた思いを吐き出すように話し、そんな私を吃音教室の人達は「ようこそ」と温かく迎えてくれた。ただ、その時の自分は「吃音を治したい」という思いが強すぎて、自分の場所はここじゃないと感じていた。そして足が遠のいた。
それから7年の月日が経ち、再び大阪吃音教室の扉を叩いた。昔と変わらないスタイルにホッとし、私を覚えてくれていた人たちが居る事に喜んだものの、まだ私の中に心の壁があった。
当時はそんな調子だった私も、今や大阪吃音教室での例会や、教室の仲間達の前では、かなり吃れるようになり、吃音をコントロールしないで話す事がラクだと思っている。
吃音をコントロールしていた頃、人との間にあった見えない壁も、今は教室ではほとんど無い。
吃りながら自分らしく豊かに生きる事が出来たら、どれほどラクで、幸せな事だろう、と今は思う。
どもりを何が何でも頑に隠し、どもりだから自分は不幸だと思っていた私は、もう居ない。
かと言って、全て受け入れられた訳では無く、吃音教室を一歩出れば、吃らないようにコントロールしている事も多い。
もしも大阪吃音教室が「どもりを受け入れましょう」という考えを押し付けるような場所だったら、私のどもりに対する気持ちも今とは違っただろう。
「吃音と上手に付き合って、人生をより楽しく、より豊かに生きよう」と提唱しつつも、受け入れられない気持ちや治したい気持ちも否定しない。そういうスタイルだからこそ、自分の中から自然とどもりや吃る自分に対して、良い意味でのあきらめが湧いてきた。
私の気持ちが、そんな風に変化した事を今一番伝えたい人がいる。
それは、十数年前に私の手紙を読んで涙を流した母である。
涙を流したあの日から、母の心の中にも、私が20年もの間吃音を隠して一人で悩んでいた事が鉛のように重く存在していたかもしれない。
吃音に対する考えが少しずつ変わってきて、私の心が軽くなったように、母の心もスッキリと軽くさせたかった。
それに、何より私のこの変化を、母なら手放しで喜んでくれるに違いない。
しかし母は、私が再び大阪吃音教室に通うようになって3ヶ月ほど経った頃、冬の寒さが残る2月に、病気で急に息を引き取る事となってしまった。だから、生きている母に伝える事はもう出来ない。
その事が残念でたまらない。
だけど、今の私は昔のように暗い闇の中に一人ポツンと居るのではない。
相変わらず吃音で悩み、人間関係で悩み、人生につまずく事もあるけれど、それを分かち合える仲間が居る。
だから、どうにかこうにかやっていけそうな気がする。
これからの私の変化を、お母さん、どうか空から見守っていて欲しい。
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2007年度 優秀賞
笑いから学んだ言葉
川東 直
「俺にはあいつが無理をしているように思えてならん。出にくい言葉でも伝えようとしてひどく吃り悪戦苦闘。しかもせっかく伝えたものの、結局は相手からの嘲笑を目にすることも少なくないはずや。そんなあいつを見ているのが辛いんや。何とかならんのか、たかが吃りやぞ」
「されど吃りですよ。あの子ならそう言い返すと思う。私も昔、あなたと同じことを口にしたから。そもそも、たかがの一言でどもりが片付くなら苦労しないわ。あの子なりにどもりと向き合おうと一生懸命なのよ。治らないものを嘆いたって仕方ないでしょ」
夏の日曜日、ヘルパーの仕事から帰ってきた僕の耳に両親にしては珍しい喧嘩をする声が響いてきた。
唯一、聞き取れた部分から内容は僕のどもりのことだと察した。2人の会話は平行線のまま続き、その後は話し尽くしたのか互いに沈黙へと突入した。仲裁に入ろうにも、どう切り出していいやらと僕は焦るばかりだった。
「ねえ2人とも、お茶でもどう?」
しばらく経ってから、僕は仲裁を試みるべく、グラスに注いだ麦茶を未だに沈黙を続けている2人の前へと差し出した。相変わらずの2人が麦茶を口にした次の瞬間。
「うぇ、何やこれ」
「ほんと、これ麦茶やないわ」
二人が何を言っているのか訳がわからない僕は、「そんななはずない。このペットボトルから注いだよ」とすかさず反論した。するとそのペットボトルを見た母が突然吹き出して笑い始めた。何と中身は手作りの麺つゆだったのだ。思いのほかたくさんこしらえてしまった為に、空いたペットボトルに詰めて冷蔵庫に入れたばかりだったらしい。そうとはつゆ知らない僕は、お茶のラベルを鵜呑みにし気づかずにお茶を出してしまったのだ。
仲裁に入ったはずが、「やっちゃった」という思いで僕はその場でしゃがみ込んだのだった。母と違って普段から頑固で気難しく冗談が全く通じない父を前に、麦茶の代わりに麺つゆを飲ませたことで事態が余計に悪化すると思ったからだ。
程なくして、大爆笑が聞こえてきた。そっと顔を上げてみると状況を理解した父の「これは傑作だ」との笑い声だった。喧嘩していた両親の声が、今度は笑い声になって響き渡ったのだ。あの父が、あんな笑う表情を見せるとはと、僕は驚くばかり。何よりも信じられないのは、ひょんな失敗から笑いが起こり、気まずい沈黙は崩れ、両親の表情と場の雰囲気も一気に和らいだ点だ。これは僕にとって嬉しい誤算だった。
その時、ある思い出で得た感覚と類似しているのに気がつき思わず僕は含み笑いをした。その表情の意味を不思議そうに問う両親に、僕は今の胸中を交え、順を追って含み笑いをした意味を説明することにした。2年前の吃音ショートコースで「吃音での失敗や悩みをユーモアを交えてスピーチしよう」の時間の時の僕が話した内容を再現したのだった。
以前、勤めていた職場で夜勤の時、上司に内線をかけなければならない事があった。電話をかけるときのマニュアルがあり、「夜分恐れ入ります。○○主任・・」といった言い回しで始めなければならなかった。それが、「や」がどうしても出てこない。そこで、仕事上で使うことが多く、幾分慣れていた丁寧語を頭につけて切り抜けようと、とっさに口にした言葉が「お夜分恐れ入ります・・」だった。丁寧語の中でも自分自身が一番言いやすい「お」を頭につける方法を使ったのだ。そうした方法を用いて発した言葉が、相手には「親分、恐れ入ります・・」と本来伝えたい事とは全く別で、しかも変に意味を成して通じてしまっていた事に、とにかく言う事に必死だった僕は、しばらく気づかなかった。後で上司に「親分とは何だ。ふざけているのか」と怒鳴られて気づき、大変恥ずかしい思いをして落ち込んだのだった。
吃音ショートコースでのこのスピーチは大いに受けみんなはゲラゲラ笑ってくれた。みんながおもしろい話をしていたが、そんなおもしろい話は思い浮かばず、しかたなく、失敗したことだけは話せると話したのだった。
しばらく不思議な感覚だった。自分にとって恥と落ち込みで、思い出したくない、話したくない苦いエピソードなのだ。みんながそれを聞いて笑っている。笑わられているのに、少しも不快感が無くて、ひどく吃って目にする嘲笑とは受ける印象が全く違ったのだ。あとは、あれほど嫌だった苦いエピソードを笑ってもらったことによって、落ち込むほどのことではなかったのかという気づきを得た。そのことで、ひとつ壁を乗り越えたような感情が湧き上がった。あの時のスッキリ感は忘れられない。
さっきの喧嘩で言っていた僕のどもりに対する父の僕のことを心配してくれている気持ち。ベールに包まれたように普段めったに語らないので正直嬉しかった。
僕は父親に感謝しながら、こころの中で、話しかけていた。
「安心して。無理なんかしてません。たとえ出にくい言葉でも、しっかり伝えようという、ただ純粋な気持ちで日々の会話に臨んでいるのです。確かに聞き手からの嘲笑が無いと言えば嘘になる。かといって、そういう嫌な思いをする場面から遠ざかってばかりでは、何も変らないし大事な事に気づいたりさえ出来ない。受け流したり聞き流したりもできるけど、時には正面からぶつかって乗り越えるという選択に打って出る大切さを覚えたのです」。これまでどもりの話は母とばかりしてきた。これから父ともたくさん話ができるようになればと願う。
改めて吃音ショートコースの時に選んだ、ユーモア・スピーチについて振り返ってみると、題材に使ったエピソードは、今は笑って話せるプラスの記憶だが、当時の僕にすれば出来ることなら消したい位のマイナスの記憶だった。実を言うと、いざみんなの前でこのエピソードを話そうとした時も迷いが生じてスピーチするのを一瞬躊躇しそうになったほどだ。それでもスピーチに踏み切れたのは周りの励ましに後押しされたからだ。話した結果、みんなが大笑いをしてくれ、消す事ばかりに視点を置いていたマイナスの記憶が、プラスにとらえられるまでに変える事が出来た。
当時は、まだユーモア・スピーチを、長い間抱えていたマイナスの記憶を乗り越える為の気づきだったとしか僕はとらえていなかった。それが最近、あのスピーチは僕にとって癒しになったという考えが芽生えてきた。そのきっかけが、両親の喧嘩を仲裁に入るものの逆にひょんな失敗をして笑いが起き、全部一転させて和らげた現象だ。家族で笑い合ったあの直後に現れた爽やかな感じには本当に癒されたのだ。
ユーモア・スピーチをするまでは、笑われるというと嘲笑や侮蔑的な笑いしか連想できなかった。それが、スピーチを終えた後からは共感から起こる笑い、ただ素直におもしろいと感じて起こる純粋な笑い等が加わって、同じ笑われるでも大きな違いを知った。笑いという僕にとっては苦手な分野で、ユーモア・スピーチと家族と笑い合った経験から次の言葉に辿り着いた。
「笑いは人を傷つけるが、癒しもする」
【作者感想】
今回は、「文章を書き直した上での受賞」ではありますが、とても嬉しいです。これに甘んずることなく、これからも精進したいと思います。
これを始まりにして、これまで余り話合ってこなかった父親と、どもりについて話をする機会が増えて欲しいと思っています。
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2007年度 優秀賞
電話が得意になるまで
西田 逸夫
横の机の電話が鳴る。急ぎの仕事を中断させられて、少しムッとした気分になる。
2回目の呼び出し音が鳴る。頭の中で、やりかけの仕事を強引にフリーズする。顔を上げ、受話器に向き直る。キーボードとマウスから手を離し、メモ用紙の束を引き寄せる。シャーペンを手にして、深呼吸を一つ。
3回目の呼び出し音で、受話器に手を伸ばす。その頃にはほとんど、さっきまで頭を占領していた仕事のことは忘れている。自然に口角が上がり、顔には笑顔が浮かんでいる。この、「電話モード」の時の自分を、私は結構気に入っている。落ち着いて話していられ、ほとんど吃ることがない。そう、私は電話が得意なのだ。
実を言うと私は、しばらく前まで電話が大の苦手だった。
中学3年から高校1年に進む春休み。この短い期間に、私の吃音症状は一気に悪化した。電話のせいでそうなったと、今でも自分で思っている。
もうすっかり忘れてしまった、何かの理由があったのだろう。中学時代に通っていた学習塾の連絡係を、その時の私は引受けた。毎日のように何本も掛って来る電話を受け、何人もの相手に電話を掛けた。毎回、先ず自分の名を告げるところで難渋し、回を重ねるごとに電話への苦手意識が強まった。「わわわわわ、私は」という連発性の吃音症状がひどくなったのはもちろん、ことばが完全にブロックする難発性の症状が、この時期に初めて出た。
難発性の吃音症状は、その後の1年間ほどで電話以外の場面にも広がり、やがて人との会話の全場面に出るようになった。こうして、高校から大学にかけての時期、私は重い吃音症状に悩まされ続けた。その後、社会人になって経験を積み、話すことの場数を踏むにつれ、私の吃音症状は徐々に和らいだけれど、電話だけはずっと、苦手のままだった。何と言っても、吃音症状悪化の大きなきっかけになった電話を、私は好きになれなかった。
そんな私の苦手意識が改善する最初のきっかけは、今から10年ほど前にやって来た。当時私は、土木設計の会社に勤めていた。その会社の新しい得意先になった社長さんは、独特の電話の使い方をする人だった。
その社長さんは、どんな差し迫った用件の時でも、落ち着いた口調で電話を下さった。若い頃は一時プロの歌手だったという声は、低音が良く響いた。その声で、ゆったりとした口調で話されるので、その社長さんの電話は、とても聞き取りやすかった。
仕事の打合せで面と向かって話す時は、その社長さんも普通の口調だった。と言うより、人一倍滑舌が良い分、むしろ早口に話されることが多いくらいだった。それでも、そんな打合せの最中に電話が掛って来ると、低音でゆったりした口調にサッと切り替えて、受話器に話されるのだった。
この社長さんの電話の使い方に、私は大いに感化された。自分でも電話では、思い切りゆっくり話すように心掛けた。電話が、少し楽になった。それでも、苦手意識はなかなか抜けなかった。掛ってきた電話に出たり、自分から電話を掛けることはなるべく避けた。その社長さんほど模範的な電話の使い方は、私には身につきそうにないと思っていた。ただ、電話口では普段と口調を変えるということだけは、自分にも出来ることだった。
2つ目のきっかけは、6年前に通い始めた大阪吃音教室だった。論理療法を知って、吃音や電話に限らず、人生のあらゆることに対する自分の態度を柔らげることが出来た。竹内敏晴さんのレッスンを何度か受けて、一音一拍の話し方が時々は出来るようになった。2004年度の吃音ショートコースで諸富祥彦さんのワークショップに参加し、常に自分のどこかに「心のスペース」を確保しておくことの大切さを学んだ。吃音教室の常連の仲間には電話が苦手なメンバーが多く、電話の具体的な対処法を何度も一緒に話合った。
2005年の春、職場の近くで大きな鉄道事故が起こった。阪神地域の広い範囲に住む人達が、被害者やその家族、遺族として、事故に巻き込まれた。職場は阪神大震災の復興ボランティアから出発した団体で、すぐに近隣地域の幾つかの団体と共に、事故被害者支援のネットワークを立ち上げた。ネットワークを構成する10余りの参加団体で、常駐スタッフの陣容が一番充実していると思われた私の職場が、事務局を引受けた。その年の6月から12月まで、私の職場では電話回線のひとつをこのネットワーク専用と決め、事故被害者からの相談受信や、団体間の事務連絡に充てた。
実は私の職場では、ちょうどその年の春から、ある大型事業を始めることになり、スタッフの大半はそちらに従事していた。ネットワークの事務局を引受けたということは、掛ってくる電話への対応が、ほとんど私一人に任されたということだった。何かほかの作業に取り掛かっている最中でも、私はその電話に最優先で対応せざるを得なかった。どんなに急ぐ仕事の最中だろうが、どんなに込み入った仕事の最中だろうが、一旦その受話器が鳴れば、すべてをなげうって電話に集中することが必要だった。期間の途中からは事務局スタッフが増えたが、その電話には私が出ることが多かった。
実際には、我々のネットワークの活動は余り広く知られるには至らず、掛って来る電話の9割方は、同じネットワークに属する団体スタッフとの打合せや、マスコミによる取材などだった。とは言え、事故の被害者ご本人やご家族からの電話が、いつ掛って来るか分からなかったし、掛って来ればその内容は、身の引き締まるようなものだった。それに、ネットワーク団体間の連絡の電話も、話題は悲惨な事故被害に直接間接に関わる内容だった。電話の直前まで携わっていた作業のことはほぼ完全に念頭から消し、と言うより、自分に関わる事情の一切をほぼ完全に念頭から消し、電話の内容をひたすら聴き取る姿勢が、いつの間にか身についた。その受話器を手にした私は、もはや急ぎの仕事に気を取られた私ではなかった。その受話器を手にした私は、もはや電話が苦手で吃音を気にする私ではなかった。
その翌年、長らく海外に暮らしていた知人が日本に戻って来た。帰国に当り、私はパソコンの買い換えと設定の相談に乗った。メールと長い電話でのやり取りを何度か繰り返した後、帰国後の知人宅でパソコンの配線や設定を手伝った。お礼に誘ってくれた夕食の席で、知人は不思議そうに言った。
「西田君、電話では吃らんようになったのに、普段の会話では相変わらず吃るんやね」
このことばに、私は本当に驚いた。電話口でほとんど吃らずに話せているということを、この知人に指摘されるまで、自分では気付いていなかった。
知人の指摘を受けた翌日から私は、職場で電話を使う時、自分がどんな風に話しているかを観察した。確かに、電話口ですらすら話せていると気付いた。時には長電話で、込み入った話題になるなどして普段の会話口調に戻っていることがあり、そうなれば吃音が出始めることも分かった。そんな時でも、意識して自分を「電話モード」に切り替えると、またすぐに楽に話せるようになった。一方で、面と向かって相手と話すときには、以前と同様よく吃っていることにも、改めて気付いた。
電話を使う時の自分をよく観察すると、相手の話を聞く時、全身が耳になって聴くことに集中できている。電話では、声以外の情報が遮断されるけれど、逆に言えば、電話回線という1本の細い管の向こう側で、電話の相手が懸命に話し、また、聞き耳を立てている。電話が苦手な頃は、声だけしか伝えられないということをひどく不便に感じたけれど、今ではこの不便さが、雑念なく相手に話し掛けるのにちょうど良いくらいに感じられる。
今日も電話が鳴る。忙しい仕事の最中だと、一瞬ムッとすることが今でもある。
しかし、呼吸を整え、「電話モード」で受話器を手にする頃には、私の顔には自然と笑顔が浮かび、掛ってきた電話を大いに歓迎する気分になっている。
電話をしているときには、最近あまり吃らないということも、歓迎する気分の中にはある。しかしそれ以上に、電話回線という1本の管を通してなら、相手と確かにつながっている手応えを、感じることができるからである。
【作者感想】
優秀賞は、初めて応募した2001年に受賞以来、なかなか取れないでいたので、大変嬉しく思っています。特に、「電話と吃音」という、長い間苦しんだ問題について書いた文章で受賞でき、感慨もひとしおです。
書けずにいて応募しなかった年もありましたが、これからも色々な観点で吃音問題を見つめ直し、応募を続けて行きたいです。
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