2005年度 最優秀賞
隠していた頃
堤野 瑛一
何かと、隠しごとの多い子供だった。ボテボテと太っていて、目は腫れぼったく、口はいつも半開きで表情に締まりがなく、髪にはいつも寝癖がついていた。そんな冴えない風貌だった僕は、生来の内気な性格も加わって、学校でお世辞にも一目置かれる存在ではなかったし、周りの人間の僕に対する扱いも、それ相応なものだった。しかし、見た目以上に僕は、人には言えないさまざまなコンプレックスを抱えていた。
僕は、小学三年生くらいの頃から、チック(トゥレット症候群)の症状が表れて、よく顔をゆがめたり、首をビクビクとふったり、鼻や喉をクンクンとならしていた。チックを人に知られたくなかった僕は、できるかぎり、人の前では症状を我慢していたのだけど、我慢にも限界がある。自分では症状が人の目に触れないように最善を尽くしているつもりでも、やはり気付く子は気付いていたし、何度か友達に指摘もされた。「何でそんなんするん?」と訊かれるたび、「ああ、最近首が痛くて。」とか「鼻の調子が悪いねん。」と、その場しのぎなことを言い、笑ってごまかしてきた。ある時教室で、症状を我慢しきれなくて、誰も見ていないことを確認し、顔を引きつらせながら首をガクガクと思い切りふり乱した。しかしふり返ると、クラスではアイドル的な存在だったひとりの女の子がじっと見ていて「頭おかしいんちゃう?」と真顔で一言つぶやいた。僕はその子に特別興味をいだいていたわけではなかったのだけど、その言葉は深く突き刺さった。しかし何ごともなかったかのように振るまい、ショックを押し殺し、自分の傷を見ないようにしていた。残念なことに、僕には当時チックの理解者がいなく、親にはチックの事を責められ、担任の先生にも煙たい顔をされたりで、チックの辛さというのは、僕ひとりの中だけに押し込められていた。また、他人に、自分がチック症という名前のついた病気があることをいつ悟られるかとビクビクし、教室のどこかで誰かが「畜生!(ちくしょう)」と言ったり、「ロマン"チック"」とか、チック症に似た言葉を言っているのを聞くたび、ドキっと心拍数があがり、冷や汗が出た。
抱えていた悩みはチックだけではなかった。当時の僕は、相当な精神的な弱さからくる、慢性的な腹痛に悩まされていた。授業中の張りつめた空気、トイレに行けないプレッシャーから、毎時間、お腹が痛くなった。テストの時間などは最悪だった。そして、休み時間のたび、友達から隠れてこそこそとトイレに行った。もしも大便用個室で用を足しているのを同級生に見つかり、からかわれるのが怖かったため、万全を期してわざわざ別の校舎のトイレまで行っていた。学校での腹痛を防ぐために、毎朝、登校前には、長時間トイレにこもった。今ここで一生分の排泄物を出し切ってしまいたい…!そう願いながら。また、たいていの子供にとって、遠足といえば楽しいものだけど、僕には恐怖だった。学校にいる時以上に、トイレの自由がきかないから。も…もれるっっ…、一体何度、その窮地に立たされ脂汗をかいてきただろうか。結果的に一度も"おもらし"をせずにすんだのが、奇跡的と思えるくらいだ。
まだある。僕のヘソは出ベソで、そのことを、小・中学校にいる間中、ずっと隠し通していた。もしも出ベソがばれたら、からかいの対象になることは目に見えていたからだ。身体測定でパンツ一枚になる時など、パンツはいつもヘソよりも上まであげて隠していた。太ってお腹が出ているせいで、しょちゅうずれ落ちてくるパンツを、引っ切りなしに上げ直していた。あまり上まであげるものだから、いつもパンツはピチピチしていて、股の部分は吊り上げられ、今思い返すと見るからに不自然だった。水泳の時間なども、いつも意識は出ベソを隠すことに集中していた。
他にも、男のくせにピアノを習わされていたことや、誰もが持っているゲーム機を持っていなかったこと…人に知られたくないコンプレックスはたくさんあった。見た目もデブで不細工、くわえて運動音痴、これといって人目をひく取り柄もない。たびたび自分のことを遠くから見ながら、チックの症状を見てクスクスと笑っている女子たちに気づいたこともあった。そんな経験もあって、今でもどこかでヒソヒソ声やクスクス笑う声が聞こえると、自分のことを笑っているように思えてしまう。コンプレックスのかたまり…僕は本当にそんなだった。
しかし僕は、そんな劣等感のさらに奥深くで、人一倍、自尊心も強かったように思う。どれだけ人からからかわれても、笑われても、大人たちがまともに相手にしてくれなくても、決して自分を卑下することはなかった。「くそ、自分はそんな馬鹿にされた人間ではない。自分にはきっと価値がある。」そんな思いが強かった。劣等感と自尊心、一見そんな対極に思えることが、僕の中にはたしかに混在していた。いや、劣等感と自尊心は対極なのだろうか?自尊心が強いから劣等感をもつ、劣等感が強いから自尊心に火がつく、卵が先か鶏が先か…そんなことは分からないけれど、とにかく両方あるから、自分を変えようとする原動力になる。
中学生になった頃、僕は自分の容貌の悪さをさらに強く意識するようになった。これでは駄目だ、痩せよう…!そう思い立った。朝食は抜き、昼食はおにぎりかパンをひとつだけ、間食は控えて、夕食もそれまでの大食いをやめた。そして、毎晩、体重計に乗った。日に日に体重が落ちるのが楽しくて、食べることよりも、体重が減っていく達成感のほうが、快感だった。中学二年の頃には、ずいぶんとスマートになっていた。並行して、以前は親から与えられた衣服をそのまま着るだけだったが、自分で洋服を選ぶようにもなり、髪もいじるようになった。また、鏡を見るのが大嫌いだったけど、よく鏡を見るようになった。すると、それまでは半分しか開いていなかった力のない目も、自然とくっきり開いてくるし、ゆるんでいた口元も絞まる。
また幸運なことに、クラスの同級生にたまたま、自分以外にもうひとり、しょっちゅう大便用個室に行く男の子がいた。「緊張すると、すぐお腹痛くなるんよなー。」その子は恥じらう様子もなく、いつも堂々と、チリ紙を持ち個室へと入って行った。自分ひとりではない、仲間がいる!僕は嬉しくてたまらなかった。それ以来、その子に便乗して、「あー、またお腹痛いわ。」とか冗談混じりに言いながら、人目を気にせずトイレに行くようになった。授業中に「先生、お腹痛い、トイレ!」と大声で言い、笑いがとれるようになるほど、吹っ切れた。
そんなこともあり、自分の見た目にも以前のようなコンプレックスはなくなり、僕は徐々に明るく活発になった。そうなると、自然に付き合う友達のタイプも、活発なタイプに変わってきた。もしも、以前の見るからにコンプレックスのかたまりのようだった僕が、隠れてコソコソとトイレに入って行くところを誰かに見られたら、たしかにからかわれただろう。でも、自分に自信がつき、堂々とトイレに入っていけば、誰もからかわない。出ベソを見られたって、誰も馬鹿にはしなかった。小・中学校は、ずっと地元の公立で、昔から知っている者どうしだったけど、中学も卒業し、高校に行けば、誰も僕が昔あんなだったとは、想像もしなかった。チック症のことは、おそらくたびたび、「ん?」と変に思われることもあったのだろうけど、そのことで日頃から馬鹿にされたり、とりたてて何か訊かれることもなかった。
"変えられることは変えよう、変えられないことは受け入れよう"…太っていることは努力で解決出来た。腹痛や出ベソそのものには、対処できない。だから自分の持ち前だと認めて、隠すのをやめた。気持ちに余裕ができると、結果的に慢性の腹痛は、徐々に軽くなっていった。チックのことも、自分ではそんなに気にならないようになった。もう自分には、これといったコンプレックスは何もない…そう思っていた。
高校二年になったころ、僕はどもり始めた。それまでは何ともなかったのに。初めは、そのうちなくなるだろうと楽観的だったのだけど、だんだんと慢性化していった。「おかしいな…」そして気がつけば、いつしか、どもりを隠している自分がいた。会話でどもりそうになると、たとえ、話が支離滅裂になってでも、どもらずにすむことを言ってごまかした。自分がどもることを知られたくない…かたくなにそう思って、隠して、隠して、隠し続けた。どもることを受け入れられず、そして、どもることを隠すがゆえに、自由がきかなくなった。まただ、こんなはずではなかったのに…。
…あれから、もう10年が過ぎた。あまりに、色んなことがありすぎた。
僕は、数年前から、大阪の吃音教室に参加している。そこで、豊かに生きるためのヒントとして、"変えられることは変えていこう、変えられないことは受けいれよう"ということを学び、共感した。僕は中学生の頃、それを体験的に知っていたはずなのに、どうしてまたあの時、どもることを隠してしまったのだろう。「先生、お腹痛い、トイレ!」とか言ったのと同じように、「俺、めちゃくちゃどもるわ!」とか言って、みんなを笑わせてやる選択もあっただろうに。でも、当時はそれができなかった。どもることを、受け入れられなかった。
今は、多くのどもりの仲間に恵まれ、たくさんの人の考えや体験に触れ、"どもりながらでも、豊かに生きられる。どもる事実を認めて、どもりと上手に付き合おう"と、前を向いて歩いている。どもりの悩みの真っただ中にいた頃は、自分の未来像なんてまったく描けず、ただただ真っ暗闇だったけれど、今は着実に、明るい道を歩んでいる。僕は、どもる人間だ。どもる人間が、どもりを隠そうとしたのでは、何も出来ない。たしかに、どもりは不便なことが多い。でも、どもることが理由で出来ないことなんて、本当は少ないんじゃないだろうか。ずいぶんと遠回りをしてしまったけれど、どもることが原因で一度は不本意にあきらめたことを、これからじっくり、やり直していきたい。どもりと上手に付き合いながら。
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*** この作品は『吃音を生きる』に収録されています ***
【作者感想】
この度文学賞に応募するために書くことで、断片的な記憶や漠然としていた思考が整理され、また新たに思考をめぐらせるきっかけにもなりました。
今回の作文は、吃音教室でのテーマのひとつにもなっていることですが、“変えられる事は変える、変えられない事は受け入れる、変えられる事と変えられない事とを見極める”ということをキーワードに、自分が吃音になる、さらに以前の経験から振り返ってみました。
じっくり記憶をさかのぼっていると、長い間忘れていたことも思い出したり、当時は深刻だった悩みも、今思い返すとおかしくて思わず笑ってみたり、あんなふうに悩んできたことが、今の自分をたしかに形成していることを実感できたりと、色んな思いが交差しました。
文中で、“なぜあの時、どもることを受け入れられなかったのだろう”という問いかけをしましたが、それを堀り下げていくと、それだけでひとつの作文になってしまうので、今回は控えましたが、“なぜ、どもることを隠さなければならなかったのか”を、また考えていきたいと思います。
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2005年度 優秀賞
家族会議
掛田 力哉
吃りが縁となり、結婚することになった。相手の女性は吃らないが、長年吃音の子どもたちのキャンプに関っており、吃る子どもたちを見つめ続けている人だった。私もスタッフとしてそれに参加した事が知り合うきっかけとなった。結婚を決めた夏の盛り、相手の両親に、挨拶に行く日取りが決まった。私の吃音のことは、彼女の両親も知っているという。元々が吃音を通して出会った二人、ありのままを伝えてくれていることが、ほろりと嬉しかった。
ところが、挨拶の日が迫ってくるにつれ、私の脳裏にある光景が浮かぶようになっていた。それは、玄関を入った直後、自分の名を名乗れぬ己の姿だった。自分の名も満足に言えず赤面する男に、彼女の両親は不安を覚えるのではないか。かつて二十数年間私を捕え続けてきた吃音の劣等感が、うっすらとよみがえっていた。仕事を辞めて大学に入り直し、改めて吃音と向き合い始めたのが三年前。「吃りを受け入れる」ということにも自分なりの答えを見つけられそうに感じ始めていた時だった。そんな自分の中に、未だそのような吃音への恐れが厳然と存在しているという事実に、うろたえた。同時に、どこかで「やはり」というか当然のような思いも感じていた。「吃ったのなら、それでしょうがない」と考えたかと思うと、暑くて寝苦しい夜など、例の光景が目の前を何度もよぎったりした。不安はじわじわと押し寄せ、またひく波のように、私の頭をうごめいていた。
いよいよその日が近づいた夜、東京の母親から手紙が届いた。手紙には、私の結婚を喜び歓迎しているということや、相手の女性への感謝の言葉などがまじめな文章で書かれていた。そしてその最後に、こんな事が書いてあった。
普段は離れて住む兄弟二人も久しぶりに集まった夜、家族会議があったという。その中で「挨拶のとき、彼は果たして自分の名をちゃんと名乗れるのだろうか」という話題になった。各々が、「彼は緊張が度を過ぎると、吃らなくなるようだ」「いや、事態が事態だけにそれはわからない・・」などと、好き勝手な意見を「大笑いしながら」交わしたらしい。
その報告を読みながら私もお腹を抱えて笑い、いつしか、それまで張り詰めていた何かがぷっつりと切れるような心持ちになっていた。家族が私の挨拶を心配してくれたことはもちろん嬉しかったが、私の吃りが家族の話題になり、そのことで家族が笑ってくれたということが、何よりも嬉しかった。
高校生の頃から、私は少しずつ自分が吃音に悩んできた事を家族に話すようになった。長く共に暮らしていれば私が吃る事などわかりきったことで、別にそのことで深く話し合うでもなく、またそれを責められるでもなく、私自身も特に何かを望んで話したわけでもなかった。ただ、進学や就職などあらゆる場面で、私が吃りに悩んだ経験から「言葉の問題」にこだわってきたことを、一番良く知っているのも家族であることは間違いなかった。ようやく辿り着いた大阪の吃音教室で、本格的に吃音と向き合い始め、吃音の詩を書き、吃音と名のつく本を読み漁り、30歳を前に「吃音漬け」の日々を送っている私のことを、家族はどう思っていたのだろう。そんなことにはお構いなく、私は好きなように生きていたのだが、この時初めて、私は自分の吃音が家族のなかで認められ、「吃音者」としての私の生き方を家族がずっと温かく見守ってくれていたのだということに気づかされた。同時に、笑いながら自分の吃音について話してくれたという事が、吃りながらも、私がそれに押し潰されることなく生きていけることを、家族が信じてくれているという確信に繋がった。その事が、本当に嬉しく、ありがたかった。
思いおこせば、相手の女性も、私との交際のことを家族が揃った場で報告したのだと話してくれたことがあった。そこでどんな話があったかは知らないが、彼女を愛し、信じる家族たちが、一所懸命に彼女の話に耳を傾け、思いを巡らせ、何かを語りかけてくれたに違いないのだ。吃るパートナーを選んだ娘を、その決意を信じるからこそ、彼女の両親は結婚の挨拶を待ってくれているのである。私はそんなことも忘れ、一人空しい堂々巡りをまたもやらかしてしまった。吃りの悩みは果てることがない。ふとすると、自分が恵まれていることや、誰かに愛され支えられていることさえ見えなくなってしまう深刻さを孕んでいる。しかしまた同時に、人の優しさ、温かさを教えてくれるのも、いつも吃音であるように思う。受け入れたはずの吃音と格闘したそれまでの日々は、かつて経験したことのない、また新たな吃音との時間であった。
挨拶の当日は、すっかり「吃りは吃り、吃っても吃らなくても、言うべき事をきちんと言えばよい」という心持になっていた。それでも何となく胃薬を飲む私を、彼女は微笑みながら見守ってくれていた。フタを開けて見れば、既に当然のことながら先方に私の名前は伝わっていて、改めてどうしても名乗る必要もないのであった。いざ玄関を開けてから、自分が名乗ったのかどうか、実のところそれさえ覚えていないほど緊張していたのであるが・・、穏やかで慈愛に満ちた、自分にはもったいないほどの大切なたいせつな新しい家族ができた。
そしてこれから私はもう一つ、自分たちの新しい家族を作ってゆく。もし子どもに恵まれたなら・・、そんなことを考えたりしている。私たちの子どもは、どんな喜びや悲しみや困難を経験し、どんな人生を生きてゆくのだろう。まるで見当がつかないが、私に出来る事、私が伝えてあげられることは、やはり吃音に悩み苦しんだ経験を率直に話して聞かせることしかないのだろう。その吃音と向き合ったからこそ、自分は多くの人に支えられて生きているということに気づいた、その「人のありがたみ」を、訥々と伝えていきたいと思う。他でもないその吃音が、自分を生んだ両親を引き合わせたと聞いた子は、一体どう思うのだろう。ついでに、悩みはずっと果てる事がないという事実を聞いた時も・・。
そして時には、私たちを育ててくれたそれぞれの家族のように、深刻な問題も嬉しい出来事も、他愛の無いニュースでも、寄り集まって好き勝手に話しながら互いを思い合えるような、そんな家族会儀を開けたらと、そんなことを夢見たりしている。
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*** この作品は『吃音を生きる』に収録されています ***
【作者感想】
作品は、例会の「吃音体験を綴る」の回に参加したとき書いたものに、肉付けしたものです。
例会当日は、「〜を綴る」の回とは知らず、何の準備も構想もないままに会場に着いてしまいました。突然、「文章を・・」と言われて戸惑ったのですが、「今、吃音について思うこと感じていることを素直に書いてみて」というファシリテーターのアドバイスを聞いて、真っ先に書こうと思ったのがこの事でした。文体や言葉にそれほどこだわらずに、結婚を通して改めて向き合うことの出来た吃音のこと、家族のことを、飾らずに書いてみようと思って出来た作品です。
自分の中にしまっていればそれまでですが、こうした形で改めてことばにする機会を頂けたことで、私にとって大切なたいせつな人たちに、思いを伝えられたこと、本当に感謝しています。忙しい中、時間をかけて選をしてくださった伊藤さん溝口さん、そして作品を読んで下さった皆さん、本当にありがとうございました!
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2005年度 優秀賞
もう、大丈夫だよ
内田 智恵
あまりの痛さに声も出ない。天井まで届きそうな、我が家で一番大きなドアに手の指を挟んでしまった。脂汗を流し、その場にうずくまると、父親のことが頭に浮かんだ。
私がまだ生まれる前のこと、父は岩に手の指先を挟まれ、一本の指の爪が大きく変形してしまったという。「お父さんもこんなに痛い思いをしたのだろうか。今日は元気でいるだろうか・・」そんなことを考えていた時、突然、電話の呼び出し音が鳴った。実家の母からだった。
「お父さん、入院することになったよ」
父は12年前に、脳内出血で倒れ、リハビリをしながら療養生活を送っていた。大きな病気をして、体が弱くなっていたのか、風邪をこじらせては、時々入院することもあったがいつもすぐに退院していた。今回もきっと大丈夫だろう。思わぬ父の入院騒ぎに、指の痛さのことはもうすっかり忘れてしまっていた。
父は吃音者だった。と言っても会話に困っている様子もなく、話す声は誰よりも大きかった。消防士として、現場で仕事をしたり、緊急連絡のやりとりをするうちに、鍛えられたのだろうか?自宅にかかってきた電話を真っ先にとって話す父の声は、家中に響き渡っていた。幼い頃、私は父が吃音者であるとは考えたこともなかった。でもやがて、自分自身の吃音の悩みが深いものなっていくと、父の話し方が、私と同じであることに気付いてしまった。父の吃る姿は、自分を見ているようだった。吃ることはいけないこと、劣っていることと思っていた私は、次第に父との会話の場面を避けるようになっていた。その上、「私が吃音になったのは、お父さんのせい」、そう思い込むことで、吃っている自分から何とかして逃れようとしていた。父と吃音について話したことはない。私には、語り合える勇気がなかった。父も同じだっただろう。きっと私が傷ついてしまうことを恐れていたのかもしれない。
母から毎日のように、父の病状を聞いていた。検査の結果はあまり良くない。ここ数年、父の老いていくスピードが速くなっていったような気がしていた。実家からの電話がだんだんと怖いものになっていった。
そんなある日、吃音者の人達だけのワークショップが開かれる知らせが届いた。2回目の開催だという。前回は参加しなかった。吃る姿を見られたくないし、他の人が吃っているのを見るのも嫌だった。自分と同じ吃音の「仲間」を求めていたにもかかわらず、いざとなると、最初の一歩が踏み出せなかった。迷っていた参加だったが、今まで体験したことのない、「吃る人達だけの世界」に身を置くことで、父の入院という現実を忘れられれば・・そんな思いで行くことにした。
当日、ワークショップの会場に恐る恐る入っていくと、そこには暖かい空気が流れ、仲間達が迎えてくれた。吃りながら言葉を交わすと、不安も吹き飛んで、その心地よさに感激して、胸がいっぱいになっていた。ありのままの自分でいられる場所をようやく見つけた瞬間だった。仲間達の語る言葉には力があった。それが、体験であっても、悩みであっても、心の中にスッと入ってくる。今までに体験したことのない、不思議な感覚だった。そして、私の吃音に対する思いを劇的に変えた出来事が起ころうとしていた。ただその時の私は、まだそのことが大きな意味を持つことになろうとは思ってもいなかったのだが。
その出来事とは、伊藤伸二先生がお話の中で、吃音者であったご自分のお父様がなくなった時、本当に悲しい思いをしたが、お父様が、吃音というプレゼントを自分の中に残してくれたと思うことで、悲しみを癒すことができた。・・と語られていたことだった。プレゼントだなんて・・。とてもそんなふうに思うことはできない。私の吃音はあくまでも、「お父さんのせい」、治るものなら消えてほしいよ。吃ることは自分なりに受け入れていたつもりだったのに、まだ別の思いがあることにも気付かされた。ワークショップの2日間、私の思いは、オセロゲームのようにパタパタと入れ替わっていた。
仲間達とも別れ、いつもの生活に戻ってからしばらくたったある日、母から電話が入った。
「お父さん、亡くなったよ・・」
検査をするたびに悪いところが見つかり、ついには体に負担がかかるからと、検査することさえできなくなっていた。覚悟はしていたが、知らせを聞いて頭の中が真っ白になってしまった。荷物をまとめ、亡くなった父が待つ実家へと急いだ。
父は和室で静かに眠っていた。入院から3ヶ月、食事がとれなかったので、ずいぶんと細くなっていた。口はしっかりと閉じられ、いい顔をしていた。葬儀屋さんの説明を受けながら、お通夜の準備が進められていった。旅支度のため、父に草履をはかせ、手に杖を持たせようとした時、母が葬儀屋さんに尋ねた。「主人は病気で、右半身が麻痺していたので、杖はいつも左手で持っていました。この杖はどちらの手に持たせたらいいのですか」
すると葬儀屋さんは、「病気はみんな治って旅立たれていきます」。「じゃあ、お父さんの利き手の右手に持たせてあげようね」とみんなで父の右手に杖を握らせた。私は固く結ばれた父の口元を見つめながら、吃音はどうなるの?治ってなくなっちゃうの?でも吃りは障害でも、病気でもないと思うし・・。では、父は吃音と一緒に天国へ旅立っていったのだろうか。「ねえ、お父さんはどっちがよかった?治った方がいいと思っていた?不自由な体も苦しかった病気からも解放されたけど、吃音の調子は今どんな感じ?」心の中で父に問いかけていた。
父と娘で語り合うことのなかった「吃音」。3人の子供達の中で、私だけが父と同じ吃音者であったことを父はどう感じていたのだろうか。ちょっぴり本音を聞いてみたいと思った。もう叶わないことだけど。
父の葬儀、告別式は大勢の人に参列していただいて、それはにぎやかなものだった。遺影の父は、いつもの笑顔でにこにこと笑っていた。告別式の時、「3人のお子様達は、お父さんに怒られたことがなかったといいます」というエピソードが紹介された。子煩悩で優しい父だった。参列者の中には、「本当に怒られたことがなかったの?」とびっくりしていた人もいた。もちろん「本当」のことである。
幼い頃、私は父と過ごすことが多かった。母が仕事で家を空けていたし、交代制勤務だった父は、時間こそ不規則だったが、昼間家にいることが多かったからだ。勤務明けで、疲れていたこともあっただろうが、とにかくよく遊んでくれた。しかし、後になって、私が吃音のことに対して、悩み、嫌悪感を抱くようになると、私が吃るようになったのは、この父と過ごした時間が多かったから、吃音が私にうつってしまったのではないか、と考えたこともあった。キラキラとした楽しくて、素敵な思い出ばかりだったのに。
最後のお別れの後、ついに父の姿形はなくなってしまった。今までに味わったことのない喪失感である。もう二度と会うことはできない。悲しくて、悲しくて、父のことを思い出さないようにしていても、寂しさは募る一方だった。そんな私の脳裏に、ワークショップのときに聞いた伊藤先生のあの言葉が再びよみがえってきた。「吃音は自分の中に残されたプレゼント」。そうか、その通りなのかもしれない。人一倍寂しがり屋で、心の弱い私。父を亡くしても悲しみにくれることのないよう、神様が父と私に、吃音というものを分け与えてくれたのではないだろうか。
昔から私は父に良く似ていると言われてきた。そっくりな顔、のんびりとした性格、そして話し方。多感な時期には、そのことが恥ずかしいと思ったこともあった。でも今は違う。私の中に父は確かに生きている。そう実感できることが、心から嬉しい。父の入院によって背中を押され、参加したワークショップ。大勢の吃音者の仲間達との出会い、吃音や父に対する思いを大きく変える出来事にめぐり合えたことは、娘を思う父の想いが、私を貴重な体験へと導いてくれたのだろうか。
吃りで困ったこともたくさんあった。泣いたこと、悩んだことも数えきれない。もちろん今だって、不便な思いをすることもある。でも、今、「吃音」に感謝している。吃りだったからこそ、いろいろな経験をした。嫌なことの方がはるかに多かったが、そこで考えたこと、感じたことは、私が生きていく上での大きなパワーとなっている。もし吃音でなかったら、人生の中で大切な「何か」に気付くことが出来なかったかもしれない。父への「思い」も少しずつわかりかけてきた、その「何か」の一つだと思う。日々の生活の中、様々なことを感じ、父を思うことができるのは、吃音のおかげである。父からプレゼントされた私の中にある吃音と共に、これからは自分らしく、しっかりと前を向いて歩んでいきたい。
「お父さん、私、もう大丈夫だよ。吃りで本当に良かったと思っているから。私の中で、ずっと、ずっと一緒にいようね」
遺影の父がうなずいてくれたような気がした。
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*** この作品は『吃音を生きる』に収録されています ***
【作者感想】
家族が寝静まった後、真夜中のリビングで「ひとり」机に向かってこの作品を書き続けました。亡くなって間もない父のことを書くことは、私にとって大変つらい作業でした。元気だった頃のにこにことした笑顔、リハビリと闘病をしていた時の苦しそうな顔、父の思い出が頭の中に次々とよみがえり、胸がいっぱいになって書き進めることができない日々が続きました。「やめてしまおうか・・」と何度か思いましたが、リビングにある遺影の父と目が合う?と、「頑張れ!」と励まされているような気がして・・。父に見守られながら書き上げた作品です。
心の中にしまい込まれていたかもしれない父と吃音に対する思いを、私の言葉として今ここに残せたのは、「ことば文学賞」という機会にめぐりあえたからです。文章に綴ることで、父の生きてきた証をたどり、過去の自分を見つめ直し、新しい一歩を踏み出すきっかけに気付くことができたのだと思います。
思いを伝えるためには、文字として、言葉として表現しなければなりません。作品として書かれたことで送り出された文章。読んで下さったみなさんに少しでも伝わるものがあれば嬉しいです。吃音の「仲間」たち、見守ってくれた父、私のことを支えてくれたすべての人たちに心から感謝しています。ありがとうございました。
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2005年度 審査員特別賞
吃音が「消える」とき
西田 逸夫
楽しかった同窓会が終わり、一緒に下りるエレベーターの中、オーディオマニアの友人がポケットからカセットレコーダを取り出した。
「お前のさっきの、面白かったな。ちゃんと取れてるか、回してみよか」
会の終わり頃に放った駄ジャレが大いに受けて、満足顔をしていた僕に、そう話しかけて来た。乗り合わせた数人も賛成し、巻き戻す友人の手の動きにつられるように、ぐるりと囲んで覗き込んだ。
食卓で親父が、毎日のように駄ジャレを飛ばす家で育った。夜中のラジオからは、よく落語が流れていた。駄ジャレや地口、語呂合わせが、放っておいても浮かんで来る頭の構造に出来上がっている。
吃りであることが邪魔をして、浮かぶ駄ジャレの大半はタイミングを失ったまま頭の中で空回りする。それでも、家の中や気心の知れた仲間うちでは結構口に出すし、悪くない確率でヒットを飛ばしているつもりだ。この日は懐かしい顔の揃った集まりだったし、酒が入ってなごんでもいたので、僕としては珍しいことに面白発言を幾つも繰り出し、終わり近くにも狙いすました駄ジャレを飛ばして座を湧かせたのだった。
友人は素早い動作でレコーダを操作すると、「この辺や」と言って再生ボタンを押した。録音された自分の声を聞く機会は、それ以前には少ししかなかった。レコーダを通した自分の声は、自分の耳で聞く声に比べて妙に甲高くて好きになれず、敬遠もしていた。しかしこの時は、自分がヒットを放った瞬間を聞けるというのである。期待して耳を澄ませた。
ところが、である。友人のカセットから聞こえた声は確かに自分のものであり、さっきの発言には違いがないものの、余りにひどく吃っていてそれが耳障りで、ちっとも面白く感じられないのだ。友人にもそう聞こえたらしく、首を少し傾げながら何度かテープを巻き戻して再生した。けれども、僕の駄ジャレがそれで聞き取りやすくなるはずもなく、会場での笑いを再現することは出来なかった。
今の僕なら、録音テープで自分のひどい吃り方が流れて来たら、それ自体を笑いの材料にして何か気の利いたことを喋るだろう。その時の僕にはそんな余裕などなく、ただ口を閉ざしてしまった。周りの仲間も白けたようになってしまい、エレベーターが下に着くと、別れの挨拶だけをして、そそくさと降りたのである。
実は、この友人が僕の発言を録音再生する出来事は、この数年後にもあった。その時は記録を取るという目的があり、全員の発言が取れているかをざっと確認したのだった。前回の録音再生でガッカリしていた僕は、この時は再生される前から幾分の覚悟が出来てはいた。それでもテープが回り始めると、何を言っているのか聞き取れないくらい激しい吃り方で喋る僕の様子を聞かされることになり、居たたまれない気持ちになった。
そして同時に、不思議にも思った。録音テープを聞くと自分でも内容を聞き取れないのに、さっき話した時にはちゃんと通じていた様子だったのはなぜだろう。以前の同窓会でも、自分がひどく吃りながら喋った駄ジャレがその場のメンバーに大受けした。そんな時には、聞き手にはどんな風に聞こえているんだろう。
自分が笑われたのが、吃っているせいで喋り方が可笑しいからなどでは決してないはずだ。それなら、友人が人前でテープを再生するはずもない。「さっきのが面白かった」と言って再生してくれたのだ。
わざわざテープを再生してくれた友人、一緒に聞こうと周りを囲んだ仲間達の好意が疑いのないものだっただけに、余計に納得が行かなかった。
普段、自分の自覚よりも遙かにひどく吃っているんだということを、それ以来常に意識するようになったし、まわりにどう聞こえているのかを、始終気にするようにもなった。
そんな僕が、聞き手の側について考えるヒントを得たのは、それからさらに何年もたってからだった。
僕はある時、一週間ほどの休暇に、尊敬する知人の勤めていた札幌郊外の身障者工場でボランティアを務めた。宿舎の部屋の枕元に置いたコップの水が、朝になると底まで氷になったことを覚えているから、正月休みを利用してのことだったと思う。
その工場では、いろいろなタイプの障害を持った人たちが生き生きと働いていた。大きく分けてクリーニング部門と出版印刷部門があり、それぞれの障害と適性に合わせ、さまざまな機械を操作したり、その手伝いをしたりしていた。中でもエネルギッシュに働き、一段と目立っていたのは、一人の脳性マヒの男性だった。彼は、昼間は工場の重要な働き手として印刷機械と格闘し、夕食後は手話サークルを主催して聴覚障害の同僚と話せるようになろうと努めていた。
その工場に行く前にも、僕は脳性マヒの人と話したことはあった。ただ、そんな時にはいつも、相手の側の介助者が聞き取りにくい発声を「通訳」してくれた。でも、この工場の彼は、いつも一人で車いすを自在に操り、工場内を飛び回っていた。知人に奨められて初めて手話サークルに参加した時には、聞きたいことが浮かんだら直接尋ねるしかなかった。こちらは吃音で、彼は脳性マヒ。お互い聞取りに苦労し、最初の会話では深いことは話せなかった。でも、何かお互い感じるところがあった。少なくとも僕はそう感じた。
その後は、昼休みに食堂で見かけたりすると、なるべく近づいていってこちらから話し掛けた。彼も辛抱強く会話の相手をしてくれた。やがて休暇の終わり頃、私が工場を去る直前くらいになると、彼の言葉がすっと耳に入って来るようになった。脳性マヒ特有の顔や手のけいれんも、口ごもって聞き取りにくい発声も気にならず、彼の話す言葉の意味がストレートにこちらに届くようになった。そうなると、いろいろな話題を共有出来ることが楽しく、ずいぶん深い内容まで話し合えた。冗談を飛ばし合ったりもした。嬉しかった。やっと通じるようになったのに、別れがすぐに迫っているのが残念だった。
脳性マヒの人の言葉を聞き取る僕の「能力」は、日常生活に戻るとすぐ駄目になった。それでも、たまに脳性マヒの人と話す機会があると、この時の経験があるので、簡単な会話を試みるようになった。相手の発声に慣れるだけの時間が充分取れる場合には、こちらの耳の状態が変わり、相手の言葉が聞き取れるようになると分かった。そんな時には、相手の障害のことは気にならなくなっている。会話に深く集中している。のめり込んでいると言っても良い。
何度かこんな経験をしているうちに気がついた。自分が吃りながら話している時の聞き手も、似た状態になっているのではないかと。お互いが深く話に集中している時は、言葉の障害や癖は気にならなくなる。お互いが会話の中身にのめり込むと、言葉の意味がお互いにストレートに行き来するようになる。極端な言い方をすると、そんな時には脳性マヒも吃音も「消えて」しまう。
昔の同窓会で僕が何を言って会場を沸かせたのか、今となっては思い出しようもない。でも、聞き手にはちゃんと届き、暖かい笑いで迎えてもらえたんだと、今では自信を持って振返ることが出来る。
遠回りになったけれども、気付いたことは大きかった。テープを再生してくれた友人の好意は、僕にはとても有り難いものだったのである。
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*** この作品は『吃音を生きる』に収録されています ***
【作者感想】
思いがけない受賞で、とても嬉しく思っています。
この文章で取上げたのは、「話し手と聞き手が話に集中している場面では、話し手が激しく吃っている最中でも、吃音は『消える』」という現象です。このことと、自分が脳性マヒの人と会話した経験とを結びつけた考察は、約5年前、大阪吃音教室に参加する前にも書いたことがあります。でもその時は、とても人に読んで貰えるような文章には出来ませんでした。
今回の文章、同じことを書いているとは思えぬほど、自分から見ても読みやすくなっていて、吃音教室で経験を深めることが出来たお陰と思っています。改良の余地は、まだまだ大いにありますが。
吃音という現象の奥深さ、そこから来る誤解の受けやすさについては、まだまだ書きたいことがあります。今後も折に触れて取上げて行くつもりです。
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