ことば文学賞


2007年度 最優秀賞

一番伝えたいひと

藤岡 千恵

 私がどもりで悩んでいる事は、家族にさえ秘密だった。

 幼い頃、私が吃ると必ず両親に言い直しをさせられて来た事で「私の喋り方はおかしいのかな?」と感じ始めた。
 私が吃れば両親は「もう一回、落ち着いてゆっくり言ってごらん」と言い、私がつっかえないように意識しながらゆっくり言い直すと誉められた。
 小学校の頃は吃音を隠す術を知らなかった。国語の本読みではもちろん、会話でも吃っていた。そんな自分に強いコンプレックスを抱くようになり、言い換えをしたり、吃りそうな言葉だと喋らないという自分なりの隠す術を身に付けていった。
 言い直しをされられていた経験や、授業参観で吃りながら作文を読んだ時に教室が凍り付いたように感じた事などから、幼心に「私が吃るとお父さんもお母さんもガッカリするし、何より吃る私は愛されないんじゃないか」というような考えが私の中に刷り込まれていった。だから家族と居る時も吃らないように工夫して喋るようになった。そんな私を見て、いつからか父も母も、私の吃音を真似して笑っていた弟さえも、私の吃音は治ったのだと思っていた。
 私は幼い頃から成人するまで、吃音の事を誰かに話すなんて考えもしなかったし、自分が吃音者だという事はおろか、吃音で悩んでいると知られる事も恐くて仕方が無かった。

 そんな私が、吃音で悩んでいるという事を母に手紙で打ち明けた事があった。
 それは、短大で就職活動をしていた時の事。幼稚園・保育園・乳児院に実習に行き、想像していた以上にどもりが弊害になると思い込んだ私は、就職をする自信を無くし、吃音が治るまでは就職は出来ないかもしれないと思っていた。
 そして、就職活動をしないのなら母に伝えなきゃ、と考え、『今まで吃らないように工夫して隠してきた事、実は今もどもりで悩んでいる事、吃るから就職したくない事』などを便せんにびっしり書いた。
 それが、私が生まれて初めて人に向けて自分が吃音者である事を伝えた瞬間だった。

 それを読んで母は泣いた。私はその姿を見て固まってしまった。
 母は私に、ただ一言「今まで辛かったんやね。気づいてあげられなくてごめんね。」と言った。
 その時私は、母に伝えられて良かったとは思わず、私のこの胸の内は母が涙する程に大きな事なのだと捉え、胸が痛くなったのを覚えている。
 私がずっと一人で抱えてきた事のしんどさを母が理解をしてくれて、「気づいてあげられなくてごめんね」と言ってくれた事は嬉しかった。だけど、それ以上に「お母さんをこんな風に泣かせるのなら、これからも絶対に吃らないようにしなきゃ」と歪んだ解釈をしてしまった。
 それからの私は、相変わらずどもりを隠し続けて生きてきた。この大阪吃音教室に来るまでは。

 私が大阪吃音教室の扉を初めて叩いたのは9年ほど前。
 私が22年間心の中に溜め込んできた思いを吐き出すように話し、そんな私を吃音教室の人達は「ようこそ」と温かく迎えてくれた。ただ、その時の自分は「吃音を治したい」という思いが強すぎて、自分の場所はここじゃないと感じていた。そして足が遠のいた。
 それから7年の月日が経ち、再び大阪吃音教室の扉を叩いた。昔と変わらないスタイルにホッとし、私を覚えてくれていた人たちが居る事に喜んだものの、まだ私の中に心の壁があった。
 当時はそんな調子だった私も、今や大阪吃音教室での例会や、教室の仲間達の前では、かなり吃れるようになり、吃音をコントロールしないで話す事がラクだと思っている。
 吃音をコントロールしていた頃、人との間にあった見えない壁も、今は教室ではほとんど無い。
 吃りながら自分らしく豊かに生きる事が出来たら、どれほどラクで、幸せな事だろう、と今は思う。
 どもりを何が何でも頑に隠し、どもりだから自分は不幸だと思っていた私は、もう居ない。
 かと言って、全て受け入れられた訳では無く、吃音教室を一歩出れば、吃らないようにコントロールしている事も多い。

 もしも大阪吃音教室が「どもりを受け入れましょう」という考えを押し付けるような場所だったら、私のどもりに対する気持ちも今とは違っただろう。
 「吃音と上手に付き合って、人生をより楽しく、より豊かに生きよう」と提唱しつつも、受け入れられない気持ちや治したい気持ちも否定しない。そういうスタイルだからこそ、自分の中から自然とどもりや吃る自分に対して、良い意味でのあきらめが湧いてきた。
 私の気持ちが、そんな風に変化した事を今一番伝えたい人がいる。
 それは、十数年前に私の手紙を読んで涙を流した母である。
 涙を流したあの日から、母の心の中にも、私が20年もの間吃音を隠して一人で悩んでいた事が鉛のように重く存在していたかもしれない。
 吃音に対する考えが少しずつ変わってきて、私の心が軽くなったように、母の心もスッキリと軽くさせたかった。
 それに、何より私のこの変化を、母なら手放しで喜んでくれるに違いない。

 しかし母は、私が再び大阪吃音教室に通うようになって3ヶ月ほど経った頃、冬の寒さが残る2月に、病気で急に息を引き取る事となってしまった。だから、生きている母に伝える事はもう出来ない。
 その事が残念でたまらない。
 だけど、今の私は昔のように暗い闇の中に一人ポツンと居るのではない。
 相変わらず吃音で悩み、人間関係で悩み、人生につまずく事もあるけれど、それを分かち合える仲間が居る。
 だから、どうにかこうにかやっていけそうな気がする。
 これからの私の変化を、お母さん、どうか空から見守っていて欲しい。

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2006年度 最優秀賞

僕の帰る場所

堤野 瑛一

 19歳の時、僕は初めて大阪の吃音教室に訪れた。吃る人達のためのセルフヘルプグループだ。その時僕は、勉強したい一心で進学した大学を、吃音に悩まされて休学中だった。
 僕は高校2年生の頃から吃り出した。それ以前は、言葉を発するのに苦労した経験など、一度もなかったのに。それでもまだ、高校にいる間は、誰にも吃音を悟られる事なく、何とか騙し騙し、上手くごまかしながらやって来れた。大学に進学した当初は、吃りがある自分が、これからまったく新しい環境で学生生活を送っていく事に対して、多少の不安はあったものの、まあ何とかなるだろうと楽観視していた部分もあった。しかし実際は、何とかならなかった。
 ある授業に出席した時、初回という事で順番に自己紹介を求められた。初対面の人ばかりに囲まれている緊張もあったのだろう、そこで僕は、初めて人前で激しく吃った。必死で自分の名前を言おうとするが、何秒経っても、最初の音がなかなか出てこない。何とか出そうと力んで引きつった僕の顔を、みんなが見ている。ある人は不思議そうに僕を伺い、ある人は驚いた様子で、ある人はヒソヒソ、クスクスと何かを言って笑っている。ただ自分の名前を言うだけなのに、そんなに吃るなんて普通ではないし、それは可笑しいだろう。恐れていた事が遂に起こってしまった。僕は絶対に他人には見せてはならない恥部を、この時初めて、さらけ出してしまった。何とも言えない恥辱、屈辱感だけが僕の頭の中を駆け巡り、その後の授業など、身に入るはずもなかった。
 それ以来僕は、いつでも吃る恐怖に駆られ、不本意に人を避け、同じ学科内で友達も作る事が出来ず、喋る事が必要な授業には出なくなり、しかしそんな事を続けていては、単位を取得出来ずに卒業も出来ない。
 このままでは駄目だ。何としてでも吃りを治さなければ、自分に将来なんてない。一年間休学して、吃音の治療に専念しよう。そう決心した僕は、学校に休学届けを出し、まず病院でスピーチセラピストの先生からカウンセリングを受け始めた。その先生の勧めで一度、吃音教室に訪れる事となった。

 僕はそこで、初めて自分以外に、吃る人達をたくさん見た。吃症状の差こそあるが、多かれ少なかれ、みんな自分と同じように吃っていた。僕はそのたくさんの吃る人達を見て、益々惨めな気持ちになった。格好悪い。不憫だ。自分も端から見たら、ああいう姿なのか。思わず目をつぶり、耳をふさぎたい気持ちだった。
 教室でまず初めに得た情報としては、吃音は治らない、治す事は諦めた方が良い、という事だった。そこの教室では、決して吃りを治そうとはしない。吃りは治そうと思って治せるものではないと、自分は吃音者である事実を認めて、しかし吃りながらでも、いかに自分らしく豊かに生きていくかを提唱していた。事実、かなり吃りながらでも、その人なりに豊かな人生を生きている人は、たくさんいるのだという。
 しかも予想外な事に、ここの教室は、来る前に僕が想像していた、暗くて地味で、慰め合いのような雰囲気とは大きく違い、終始みんなが楽しそうで、笑いも多く、吃っているにも関わらず活き活きとしているように見えた。僕にはそれが異様に思えて、同じ吃音者同士の輪の中にいるのに、疎外感をもった。
 何が一体そんなに楽しいのだろうか、みんな吃音者なのに。吃りながらでも豊かに楽しく生きられるなんて、とんだ綺麗事だ。やせ我慢だ。それに多くの吃音者は、物心ついた幼い時分から吃っていた、いわば先天的な吃りなのだろうけど、自分はついこの間まで"普通"だったんだ。喋る事に苦労など一度もする事なく、これまでやって来たんだ。自分の吃音は後天的なんだ。今、一時的に病んでいるだけなんだ。先天性の吃音は治らないのかも知れないが、自分は何とかすれば、きっと治るに違いない。必ず元に戻れる。自分は、この人達の仲間になんか入りたくない。
 頑なにそう思った僕は、ここにはもう二度と足を踏み入れる事はないだろうと、一度参加したきりで、教室をあとにした。

 "何としてでも吃音を治さなければ、お先真っ暗だ。自分に人生なんてない、絶望だ"
 "吃音を治して生きるか、さもなければ死ぬしかない、そのどちらかだ"
 そう考えていた僕は、吃りを治す事だけに、毎日必死になった。病院に通い、精神安定剤らしき薬も処方してもらったが、どうもこんなものでは何も効果がない。薬や医者だけに頼っていては駄目だ、自分で思いつく限りの努力をしなければと、毎日、発声練習もした。ただ声を出すだけでは駄目だと試行錯誤し、鏡に映る自分を相手に見立てて喋ったり、緊張を強いるために録音をしてみたり、自分が吃りやすいシチュエーションを出来るだけリアルに想像して故意に吃る状態を作り、そこから出来るだけ瞬時に口内の硬直をコントロールして吃状態から抜け出す技術を身につけようと頑張ってみたり、家族と喋る時には敢えて吃りやすい言葉を選んで喋ってみたり、自分なりに工夫を重ね、色々やってみた。しかし、いざ外へ出て話す機会に遭うと、一切の努力は報われる事なく、相変わらず吃り、思い通りには話せなかった。むしろ、吃音を意識し過ぎる余り、今まで以上に話す事が怖くなった気さえした。
 ある時、催眠術を試してみてはどうかと思い立った。これはひょっとしたら効くかも知れないと、収入のなかった僕は、決して安くはない料金を親に支払わせ、決して快い意思は示さない親の態度に苦い思いをしながらも、治るかも知れないという期待を膨らませ、催眠療法に通い始めた。しかしいくら通っても、吃音には一向に変化がない。期待は呆気なく打ち砕かれた。高額である事もあり、ある時点で見切りをつけ、催眠に通うのはやめた。多額のお金を捨てに行っただけ、という虚しさだけが残った。
 結局、吃りには何の変化もないままに、復学の時は刻々と近づいてくる。焦りに焦って、もう大学は辞めてしまおうか、自分の人生はこれでお終いなのかと、頭を抱えた。しかし、スピーチセラピストの先生が親身に復学する事を推してくださり、何とか励まされ、勇気を振り絞って復学の時を向かえた。しかし結局僕は、しばらく大学生活を送っていく中で、吃音の苦悩に押しつぶされ、一年も通学しない内に、不本意ながらも退学してしまった。何とも言えない虚脱、無力感、吃りでさえなければという悔しさでいっぱいで、僕は途方に暮れた。

 以後数年間、何をするわけでもなく、無気力な生活が続いた。それでも、何とか吃音を治したい、治さなければ生きては行けないという思いは強く、吃音が治るかも知れないと聞けば、鍼やお灸にも通い、気功による整体もしばらく続けた。行く先々に対してどうしても"今度こそ"という期待をもってしまい、しかしその期待は裏切られるばかりなので、結局はどこに行っても、かえって心の傷を深くしてしまうだけだった。
 そして、いつしか僕は、もう自分の吃音を頑なに拒絶し続けるのに、疲れ果てていた。これだけの事をしても治らない吃音を、何とか治そうとエネルギーを遣うのにも、かなり消耗していた。気がつけば、吃音に対する激しい反発心や、人生に対する抜け道のない絶望感さえも徐々に衰え、以前に比べれば気持ちに落ち着きが出て来て、もう充分に頑張ったのでないか、治す事は諦めた方が楽になれるのではないかと、大袈裟な表現かも知れないが、そんなある意味"悟り"のような、穏やかな心境になりつつあった。
 そして更に気がつけば、あれだけ他人に知られる事を恥や恐れとしていた吃音の事を、「僕は吃ります」「僕は吃音者です」と、自分から他人に話すようになっていた。以前なら吃りそうになると、他の吃らない言葉に言い換えたり、話すのをやめたりしていたけど、吃りをさらしながら話をする事も多くなっていった。そして冷静に見てみると、僕の事を吃音者だからといって拒んだり、嘲笑するような人は、そう多くはいないという事も実感した。
 以前の僕は、"吃音を治して生きるか、さもなければ死ぬか"の二者択一だったけれど、新たにそこに、"吃りながら生きてみようか"という、第三の選択肢が生まれた。

 「僕は吃音者だ」
 そんな風に思えるようになった頃、ふと、以前にたった一度だけ参加した吃音教室の事を思い出した。あそこには、自分と同じく吃る人達がたくさんいる。また参加してみたいと思い立ち、あれから数年を経て、僕は再び、教室に足を踏み入れる事となった。
 教室に入ると、相変わらず吃る人がたくさんいた。以前はあれだけ、仲間になんか絶対になりたくないと拒絶し、見るのも嫌だった吃音者。しかし今回は不思議と、たくさんの吃音者を見て、ホッとした。今までひとりで背負い込んでいた重たい荷物を、ようやく降ろす事が出来たような、軽快な気持ちになれた。
 自分ひとりではない、仲間がたくさんいる。そんな風に思えて嬉しくなり、元気をもらった。そして以前のように疎外感をもつ事もなく、終始、楽しく充実した時間を過ごす事が出来た。
 吃音をもちながらでも豊かに生きられる。今はその事を、むしろ現実的と感じ、素直に受け止められる。ここにいる人の多くが、時には不便な思いをしながらも、その人なりに何とかやっている。
 吃音教室に通い続けて、かれこれもう四年を過ぎた。すっかり馴染みの顔になってしまった。毎週教室に来ると、思わず「ふう」と溜め息が漏れ、出掛けると言うよりも、今週もここに帰って来れた、という気持ちになる。今では僕にとって吃音教室は、もうひとつの家、僕の帰る場所だ。

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2005年度 最優秀賞

隠していた頃

堤野 瑛一

 何かと、隠しごとの多い子供だった。ボテボテと太っていて、目は腫れぼったく、口はいつも半開きで表情に締まりがなく、髪にはいつも寝癖がついていた。そんな冴えない風貌だった僕は、生来の内気な性格も加わって、学校でお世辞にも一目置かれる存在ではなかったし、周りの人間の僕に対する扱いも、それ相応なものだった。しかし、見た目以上に僕は、人には言えないさまざまなコンプレックスを抱えていた。

 僕は、小学三年生くらいの頃から、チック(トゥレット症候群)の症状が表れて、よく顔をゆがめたり、首をビクビクとふったり、鼻や喉をクンクンとならしていた。チックを人に知られたくなかった僕は、できるかぎり、人の前では症状を我慢していたのだけど、我慢にも限界がある。自分では症状が人の目に触れないように最善を尽くしているつもりでも、やはり気付く子は気付いていたし、何度か友達に指摘もされた。「何でそんなんするん?」と訊かれるたび、「ああ、最近首が痛くて。」とか「鼻の調子が悪いねん。」と、その場しのぎなことを言い、笑ってごまかしてきた。ある時教室で、症状を我慢しきれなくて、誰も見ていないことを確認し、顔を引きつらせながら首をガクガクと思い切りふり乱した。しかしふり返ると、クラスではアイドル的な存在だったひとりの女の子がじっと見ていて「頭おかしいんちゃう?」と真顔で一言つぶやいた。僕はその子に特別興味をいだいていたわけではなかったのだけど、その言葉は深く突き刺さった。しかし何ごともなかったかのように振るまい、ショックを押し殺し、自分の傷を見ないようにしていた。残念なことに、僕には当時チックの理解者がいなく、親にはチックの事を責められ、担任の先生にも煙たい顔をされたりで、チックの辛さというのは、僕ひとりの中だけに押し込められていた。また、他人に、自分がチック症という名前のついた病気があることをいつ悟られるかとビクビクし、教室のどこかで誰かが「畜生!(ちくしょう)」と言ったり、「ロマン"チック"」とか、チック症に似た言葉を言っているのを聞くたび、ドキっと心拍数があがり、冷や汗が出た。

 抱えていた悩みはチックだけではなかった。当時の僕は、相当な精神的な弱さからくる、慢性的な腹痛に悩まされていた。授業中の張りつめた空気、トイレに行けないプレッシャーから、毎時間、お腹が痛くなった。テストの時間などは最悪だった。そして、休み時間のたび、友達から隠れてこそこそとトイレに行った。もしも大便用個室で用を足しているのを同級生に見つかり、からかわれるのが怖かったため、万全を期してわざわざ別の校舎のトイレまで行っていた。学校での腹痛を防ぐために、毎朝、登校前には、長時間トイレにこもった。今ここで一生分の排泄物を出し切ってしまいたい…!そう願いながら。また、たいていの子供にとって、遠足といえば楽しいものだけど、僕には恐怖だった。学校にいる時以上に、トイレの自由がきかないから。も…もれるっっ…、一体何度、その窮地に立たされ脂汗をかいてきただろうか。結果的に一度も"おもらし"をせずにすんだのが、奇跡的と思えるくらいだ。

 まだある。僕のヘソは出ベソで、そのことを、小・中学校にいる間中、ずっと隠し通していた。もしも出ベソがばれたら、からかいの対象になることは目に見えていたからだ。身体測定でパンツ一枚になる時など、パンツはいつもヘソよりも上まであげて隠していた。太ってお腹が出ているせいで、しょちゅうずれ落ちてくるパンツを、引っ切りなしに上げ直していた。あまり上まであげるものだから、いつもパンツはピチピチしていて、股の部分は吊り上げられ、今思い返すと見るからに不自然だった。水泳の時間なども、いつも意識は出ベソを隠すことに集中していた。

 他にも、男のくせにピアノを習わされていたことや、誰もが持っているゲーム機を持っていなかったこと…人に知られたくないコンプレックスはたくさんあった。見た目もデブで不細工、くわえて運動音痴、これといって人目をひく取り柄もない。たびたび自分のことを遠くから見ながら、チックの症状を見てクスクスと笑っている女子たちに気づいたこともあった。そんな経験もあって、今でもどこかでヒソヒソ声やクスクス笑う声が聞こえると、自分のことを笑っているように思えてしまう。コンプレックスのかたまり…僕は本当にそんなだった。

 しかし僕は、そんな劣等感のさらに奥深くで、人一倍、自尊心も強かったように思う。どれだけ人からからかわれても、笑われても、大人たちがまともに相手にしてくれなくても、決して自分を卑下することはなかった。「くそ、自分はそんな馬鹿にされた人間ではない。自分にはきっと価値がある。」そんな思いが強かった。劣等感と自尊心、一見そんな対極に思えることが、僕の中にはたしかに混在していた。いや、劣等感と自尊心は対極なのだろうか?自尊心が強いから劣等感をもつ、劣等感が強いから自尊心に火がつく、卵が先か鶏が先か…そんなことは分からないけれど、とにかく両方あるから、自分を変えようとする原動力になる。

 中学生になった頃、僕は自分の容貌の悪さをさらに強く意識するようになった。これでは駄目だ、痩せよう…!そう思い立った。朝食は抜き、昼食はおにぎりかパンをひとつだけ、間食は控えて、夕食もそれまでの大食いをやめた。そして、毎晩、体重計に乗った。日に日に体重が落ちるのが楽しくて、食べることよりも、体重が減っていく達成感のほうが、快感だった。中学二年の頃には、ずいぶんとスマートになっていた。並行して、以前は親から与えられた衣服をそのまま着るだけだったが、自分で洋服を選ぶようにもなり、髪もいじるようになった。また、鏡を見るのが大嫌いだったけど、よく鏡を見るようになった。すると、それまでは半分しか開いていなかった力のない目も、自然とくっきり開いてくるし、ゆるんでいた口元も絞まる。

 また幸運なことに、クラスの同級生にたまたま、自分以外にもうひとり、しょっちゅう大便用個室に行く男の子がいた。「緊張すると、すぐお腹痛くなるんよなー。」その子は恥じらう様子もなく、いつも堂々と、チリ紙を持ち個室へと入って行った。自分ひとりではない、仲間がいる!僕は嬉しくてたまらなかった。それ以来、その子に便乗して、「あー、またお腹痛いわ。」とか冗談混じりに言いながら、人目を気にせずトイレに行くようになった。授業中に「先生、お腹痛い、トイレ!」と大声で言い、笑いがとれるようになるほど、吹っ切れた。

 そんなこともあり、自分の見た目にも以前のようなコンプレックスはなくなり、僕は徐々に明るく活発になった。そうなると、自然に付き合う友達のタイプも、活発なタイプに変わってきた。もしも、以前の見るからにコンプレックスのかたまりのようだった僕が、隠れてコソコソとトイレに入って行くところを誰かに見られたら、たしかにからかわれただろう。でも、自分に自信がつき、堂々とトイレに入っていけば、誰もからかわない。出ベソを見られたって、誰も馬鹿にはしなかった。小・中学校は、ずっと地元の公立で、昔から知っている者どうしだったけど、中学も卒業し、高校に行けば、誰も僕が昔あんなだったとは、想像もしなかった。チック症のことは、おそらくたびたび、「ん?」と変に思われることもあったのだろうけど、そのことで日頃から馬鹿にされたり、とりたてて何か訊かれることもなかった。

 "変えられることは変えよう、変えられないことは受け入れよう"…太っていることは努力で解決出来た。腹痛や出ベソそのものには、対処できない。だから自分の持ち前だと認めて、隠すのをやめた。気持ちに余裕ができると、結果的に慢性の腹痛は、徐々に軽くなっていった。チックのことも、自分ではそんなに気にならないようになった。もう自分には、これといったコンプレックスは何もない…そう思っていた。

 高校二年になったころ、僕はどもり始めた。それまでは何ともなかったのに。初めは、そのうちなくなるだろうと楽観的だったのだけど、だんだんと慢性化していった。「おかしいな…」そして気がつけば、いつしか、どもりを隠している自分がいた。会話でどもりそうになると、たとえ、話が支離滅裂になってでも、どもらずにすむことを言ってごまかした。自分がどもることを知られたくない…かたくなにそう思って、隠して、隠して、隠し続けた。どもることを受け入れられず、そして、どもることを隠すがゆえに、自由がきかなくなった。まただ、こんなはずではなかったのに…。

 …あれから、もう10年が過ぎた。あまりに、色んなことがありすぎた。 僕は、数年前から、大阪の吃音教室に参加している。そこで、豊かに生きるためのヒントとして、"変えられることは変えていこう、変えられないことは受けいれよう"ということを学び、共感した。僕は中学生の頃、それを体験的に知っていたはずなのに、どうしてまたあの時、どもることを隠してしまったのだろう。「先生、お腹痛い、トイレ!」とか言ったのと同じように、「俺、めちゃくちゃどもるわ!」とか言って、みんなを笑わせてやる選択もあっただろうに。でも、当時はそれができなかった。どもることを、受け入れられなかった。

 今は、多くのどもりの仲間に恵まれ、たくさんの人の考えや体験に触れ、"どもりながらでも、豊かに生きられる。どもる事実を認めて、どもりと上手に付き合おう"と、前を向いて歩いている。どもりの悩みの真っただ中にいた頃は、自分の未来像なんてまったく描けず、ただただ真っ暗闇だったけれど、今は着実に、明るい道を歩んでいる。僕は、どもる人間だ。どもる人間が、どもりを隠そうとしたのでは、何も出来ない。たしかに、どもりは不便なことが多い。でも、どもることが理由で出来ないことなんて、本当は少ないんじゃないだろうか。ずいぶんと遠回りをしてしまったけれど、どもることが原因で一度は不本意にあきらめたことを、これからじっくり、やり直していきたい。どもりと上手に付き合いながら。

*** この作品は『吃音を生きる』に収録されています ***

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2004年度 最優秀賞

母との思い出

橋本 貴子

 私が母に真剣に吃音の相談をしたのは5年前のゴールデンウィークです。
 社会人になってまだ、1ヶ月程で会社での電話に相当まいっていた時期でした。吃音の正しい知識もなく毎日家に帰っては受話器をもって、電話の練習をしたり発声練習をしていました。
 大学の友達と卒業以来ひさしぶりに集まると皆、まだ仕事に慣れないけど、少しずつ覚えてきて楽しくなってきたなどの話を聞くと電話で悩んでる人もいましたが、私みたいに取り次ぎができないとか会社名が言えないなどそんな単純なことではありませんでした。
 私は皆がとても生き生きしていてうらやましくなり、私は皆とは違うんだとますます落ち込みました。
 その翌日だったでしょうか。父は出かけており、姉も妹もそれぞれ彼氏とデートの為に朝から出かけて私は母と2人でした。その日は本当にいい天気でした。私は家で何をするのでもなく、ボーッとテレビを見たり、姉や妹のことをうらやましく思い、またどうして自分だけどもりなんだろうと考えたり、ダラダラと過ごしていました。
 そんな時、私に元気がないのがわかったのか、急に母が「貴ちゃん、お弁当持って浮見堂に行こう! こんないい天気に家にいても仕方ないやん」と誘ってくれました。私は、落ち込んでいたので外に出る気持ちにはなれなかったのですがせっかく誘ってくれてるのに断るのも悪いなとそんな気持ちで家を出ました。浮見堂は家から歩いて10分もあれば着くのですが、本当に久しぶりでした。
 久しぶりの浮見堂は、新緑がきれいで、観光客がたくさんいて、ぽかぽか陽気でとても気持ちよかったです。芝生の上でお弁当を広げて食べました。いつもと変わらないお弁当なのにすごくおいしくて来てよかったと思いました。
 お弁当も食べ終わり、2人で少し歩いてベンチに座りました。
 そこで、私は急になぜ話そうと思ったのかはわかりませんが、吃音で悩んでいることを言いました。就職活動の時に少し言ったことはあるのですが、会社に入って慣れてきたら治ると思っていたので、真剣には話していませんでした。
 「カ行とタ行が言いにくい」「最近、ア行も言いにくくなってきて、電話で最初にありがとうございますのアが出ないのがすごくしんどい」
 母は「えー!そんなん初めて知ったわ。そんなことってあるんや。でもいつも言えてるやん」
 「それは私が言い換えしてるからやねん」
 「それやったら貴子のタも言いにくいん?」
 「うん」
 母は、すごく驚いた様子でした。私は言いたいことが言えて少しすっきりしましたが母は考え込んでいるようでした。
 それからしばらくたったある日、テレビか雑誌で見たのか分かりませんが、左利きを右利きに無理矢理直すと吃音になるという情報を聞いたらしく、「お母さんのせいかな?」と言いました。確かに私は小さい頃お腹が一杯になると、食べるのがいやになるのか左利きになっていたような気がします。
 しかし、私は中学2年の時の塾の先生のことが怖くて、発表するときにだんだん言いづらくなって吃音になったと思っているのでそれは違うよと言いました。
 また、熱海までメダルをもらいにいって気というか念力というかかけてもらったりしました。それをしたら吃音も治ると母もなんとかしようと必死だったようです。
 本当に母に心配をかけて申し訳ないと思っていました。
 それから、私はこのままだと会社にいられなくなると思って、吃音を治しに話し方教室へ行きました。母も賛成してくれていましたが。かなりの高額な為に心配もしていました。
 ですが、1年程たった時に、ここでは吃音は治らないと見切りをつけました。
 次に私が行ったのが吃音と上手くつきあおうというのがどんなのか知りたくて、大阪吃音教室に行きました。そこではみんなが堂々と楽しそうに吃っていて、前の教室のように吃ったら注意されていた世界とは全く違っていました。私はとても満足した気持ちで家に帰ると母が玄関の前で待っていてくれました。私は「吃ってもいいんやって」と教室での様子を話ました。母も「そうやで、吃ったっていいんやで」とこたえてくれました。
 その日以来、どもりの相談は教室でするようになり、母にはしなくなりました。
 そして、家でもどもれるようになってきました。それでもたまに吃音の話になると「なかなか人にわかってもらえない悩みを抱えてがんばっている」と言ってくれますが、今の私は母が思っているよりもずいぶん楽なので「今は本当に全然、悩んでないから心配はいらないよ」というのですが、わかっているのかわかっていないのかよく分かりません。
 ですが、わかってもらおうと母と話合うつもりはありません。説明するよりも私が元気でいる姿を見せるのが何より母に心配をかけた恩返しだと思っています。
 あの日、浮見堂で真剣に話を聞いてくれたことは私にとってとてもよかったことでした。
 否定されたり、そんなことで落ち込んでどうするのなど言われていたらもっと落ち込んでいただろうと思います。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

*** この作品は『吃音を生きる』に収録されています ***

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